本日は、一週間に一回 ゼミの師への質問の日。
私は、一昨日から悩んでいること、やらなければならないことを実行するために、
という悩みについて質問した。
私にとって、数学や理科は面白いもの、楽しいもの。好きなものに入る。
高校生に数学を教えたりする機会があるため、改めて面白いなと思ったりする。
だが、私の目指す校種は小学校。
高校までの学習は知っておいて損はないが、進んで多く学習するということはおそらくこれから減ってくる。
でも、面白いしやりたいなと思ったり、教採があるけれど高校数学や高校物理・化学をもう一回やりたいという欲がある。
それについて、質問した。
師は、数学も理科も、面白さや美しさに共感してくれた。
それに、やりたかったら、趣味でやればいいんじゃない?とも。
正直ほっとした。心のどこかで、数学とかを取り上げないでくれ、とでも思っていたからだろうか。
けれど、師の返答はそれで終わらなかった。
「普通のままでいたいのならばそれでいい。好きにやるといい。けれど、何かをなしたいと思うのなら、それは無駄だ。」と。
心臓をつかまれた気持ち。
私もどこかで感じていたところはあるのかもしれないが、小学校教員として、普通にやるのならば、好きなようにすればいいかもしれない。高校数学をやってみたっていいかもしれない。けれど、私がなしたいのは、そういったことに時間を割いていては何とかならないものなのだろうなと。
思いつくことがたくさんあった。
例えば、なぜ数学や理科が好きなのか。
確かに、問題を解いたり学んでいったりするのは好きだ。
けれど、それは数学や理科に限った話ではなく、自分の根本にあるもの。
ではなぜ?単純に点が取りやすかったから?理解しやすかったし、人よりもできていたから?
それって、根本的にその教科、学問が好きであることとは違う気がする。
自分の「好き」にそれが当てはまるなら休日だってそれをしていたはず。
その場で必要で、上手くいくものだったから好きだと思っているのか。
それなら。おそらく小学校を選んだ瞬間から、必要なくなるのではないか?
あったらいいとは思う。けれど、それに時間をかけられるほど、人生は長くないとも思う。だから、何かやりたいことがあるなら、無駄な時間になるという言葉は、すごく刺さった。
やらなければいけないこと、やりたいことを達成するには、捨てる選択も必要で。
それをするのが怖いんだなぁという自分の臆病な部分にも気づけて。
その続きの話で、いつも言われること。
自分にとって本当に大切なこと「3つ」考える。
私は、それをいつも決めきれない。迷って、できるだけ多くその3つに含まれるような枠組みを考えようとする。
それについても、師に言われた。
「決めきれない理由、いろんなものに手を出す理由は。それらと比べ物にならない圧倒的な目標がないからだ。」と。
そう、何だろうなと思った。先生になりたい気持ち、子どもたちを幸せにしたい気持ちはあるし、大きい。
けれど、それはまだ具体になっていない。どうしたら叶えられるのか。
また、それはただ教師という枠に入っただけでは叶わないということもわかる。
だから、いつもあまり考えないようにしていた。
けれど、本当にそれを願うなら、現職さんのように、いろいろな場所に行って、学びに時間を使い、人とつながり、常に子どもたちが幸せになる道を模索するはず。
そういった具体が抜けているのだと感じた。
ただの先生では終わりたくない。ではどんな先生になりたいのか。
子どもたちを幸せにする。どうやって?具体的にはどのように?
こう考えると。漠然とした目標はあっても。その霧が晴れていない。
そして、それが晴れると、たぶん自分の中で、ちょっとやりたいことなどと比較できないほどの圧倒的な目標ができるのだと確信。
自己分析もまだ足りていないなと実感した。
では、己の今の三柱は何か。
教採と、卒論。あとは小さい柱で健康が入るだろうなと。
それ以外は切っていく覚悟も必要。
じゃあ、この前かった小説は、、、なんてことも考えたりして暗くなり。
けど、師とご飯を食べる中で、師は研究という大きな柱を立てたとき、お酒を飲む時間は捨てなかったとおっしゃっていた。
私にとって、その時間は読書の時間に当たりますか?と。
「いいんじゃない。」とも言われ。
では、比重の問題なのだろうと思って。
やることが明確化し、そのうえで救いもあって。
でも、まだ、自分にとっての大きな目標が定まり切れていない。
もっとよく考えて、行動しないとなぁと思いました。