今日も塾の講師として働いてきました。
もう年内の授業は片手で数えられるほどの回数だけです。
冬期講習はまた別ですが。。。
今日は、今までに担当したことがない男の子の授業を任されて。
なんだか知っているような苗字だなぁと思って授業ブースへ。
「初めまして!今日担当します〇〇(自分の名前)と言います。よろしくね」なんて言う挨拶をして。初対面のわりに、正直すごく話しやすい生徒で。
もう、くだけた感じで、「なんか初めて会うのにめちゃくちゃ話せるね?」っていうようなことを言ったんです。
そしたら。
「〇〇先生ですよね?兄が受験期の時に見てもらっていた…」
と言われたんです。
あれ、もしや?と思って確認すると、案の定昨年とても仲が良く、受験期に授業を担当させてもらっていた生徒の弟さんだったのです。
お兄ちゃんは、高校に合格したため、塾を卒業したのですが、今どんな感じなのかとか、いろいろ話を聞くことができました。
家でも自分のことについてお話ししていたようで。
どうりで、名札を眺める時間が長かったのだなぁと納得。
お兄さんが嬉しそうに塾でのことを話していたということを聞いて、とても嬉しい気持ちになりました。
何か、すとんと落ちるような感覚。何だろうなぁ?と思いながら帰りの車で塾でのことを振り返っていた時に思ったことがあります。
自分にとって、教員の原点ははっきりしています。教員になりたいなと思った時期ときっかけですね。それは人前で話すことが、先生の代わりとしてやっているようで楽しかったとか、勉強することやそれを教えているときが楽しかったとか。
後は、暗殺教室!あのアニメは、自分の教員への夢の原点ともいえます。将来の進路の決定なんて、意外にそんなもん。暗殺教室は、見ていた時はこんなクラス、学校なら楽しいだろうなと思って。教師になりたいと思ってから見る暗殺教室は、こんな教員だったらなぁ(物理的には不可能ですが、マインド的に?)なんて風に思いながら五周ぐらいしました。
でも、今回心に落ちたのは、教員としての「核」に当たる部分じゃないかなと思います。それが、
「誰かの幸せに関わったり、つながったり。それを見たり聞いたり、感じたりできること。」なのかなぁと。
教えることは好きだし、話すことも好きです。
成長していくということも自分はすごく好きだと自覚しています。
たしか、大学の推薦の時に、なぜ教師になりたいのかといった質問をされた記憶があります。その時は、
「成長すること、成長を見るのが好きです。」なんて言った気がするけれど。
その根底にあるのは、成長して喜んでいる人の姿だったのかなと思います。
きっと、今まで教員になりたいと思ったタイミングだったり、自分を成長させてくれたタイミングで、どこかにそういう気持ち、根本的なものがあったのだろうと思います。
だからでしょうか。
『学び合い』を聞いたとき。確かに論理としてすごく腑に落ちた部分もありました。
けれど、教えることが好き、自分が話すことが好きというのであれば、恐らくここまで興味を持ったり知りたいと思わない。では、なぜそれを学べるゼミ、『学び合い』でできているゼミに入ったのかなぁ、と不思議だったのですが。
根本が「幸せについて」なのであれば、そこへいたる道は一つじゃないとわかるし。
何よりも、「誰一人も見捨てない。子どもたちに一生涯の幸せを与えられるような教師」という像は、自分の根本原理と何も変わらないから、だったのでしょう。
その辺がすごく納得いきました。
また新しく自己分析をすることができて。
そのうえで、自分が学ぶこと、経験していくこと。
直接的にどうかは分からないけれど、きっと何かしらでこれから見ていく子どもたちにつながっているのだろうなと思います。それは責任であるとも。
きついし、自覚したくないことだけれども。
やるしかないし、頑張るしかない。それがいずれ誰かのためになっていくならなおさら。。。ですね。