前のブログで、「模型」というブログを書きました。
私が上越『学び合い』の会に参加し、感じたモヤモヤについて書いたブログです。
大変嬉しいことに、コメントをいただいたり、お話しすることで、もやもやが解消されていきました。
まず感じたこととして、今自分が所属しているゼミ。
そこで学べることがどれだけの恩恵を自分に与えているのかに気づかされたことがあります。
自分の研究室の名前を、本名の前に付けて名乗るだけで、それは強力な背景が存在するようになるのと同じ。
また、師の引退に関して不安感を感じる、感じないという話については、
人と人との「距離感」も大切であると。
私は、オンライン上でつながっている人たち、全国の『学び合い』の会の人たちがいて、その人たちとのつながりがあれば。その集団があれば、上司の位置である師がいなくとも。。。と思っていました。
けれど、今安心できているのは、それこそゼミで毎日顔を合わせて、話ができる人たちがいて。その距離間で集団が存在しているから。
不安に思ったときに、顔を、身体を向き合わせて話ができる。
それができているということを、もっと大切で、貴重なものだと思わなくてはいけないと感じました。確かに、同僚に『学び合い』を進めている人がいなくとも、どこかでつながっていれば、、、と思う自分もいました。
けれど、相手も忙しく、すぐに相談できる距離感ではない。
それに、その時の第一の居場所は、その学校の職員室であって。
だからこそ、不安に感じるのかもしれないと思いました。
また、不安に感じるという点で、私も同様の経験を上越『学び合い』の会で体験したばかりでした。
それは、『学び合い』を知らない方に、自分の実践として、理論として説明するということです。
できなくて、悔しい思いをしたばかりです。
これを、実際に一人で。現場で行っていくのは。本当に理論として落とし込んでいて、尚且つ結果も出し、心を強く持てるような人でなければ厳しい。
「西川純教授が研究されている『学び合い』」という説明ではなく、
「今私がこういった理論で実践している『学び合い』」という説明になってくる。
これは、確かに不安だ。
では、私は教員になるまでに。師が引退するまでに、何ができる?何をしなければいけないのか。
一つは、自分の中に『学び合い』を落としこみ、理論として説明できるようにならなければいけない。
それも、完全な『学び合い』の脳みそでは、知らない相手にも説明するのは難しい。
だから、今の教育を、一斉の形を、これからの変化をしっかり学び、比較しながら話せなければいけないと思いました。自分ができるというだけでなく、説明できるということ、実践を見せることもできるということ。そのレベルまでもっていかなくてはいけないと思いました。
二つ目は、現場に出たときに起こりうること、『学び合い』をされている方、実践できなくなった方が抱える不安、そういった現場に出てからのことをもっと知らなければいけないと思いました。今回のブログやコメントを通して、今の環境がどれだけ恵まれているのか、また、現場での厳しさも実践者の方から聞きました。それでもおそらく一端だと思います。もっと知らなくてはいけないなと思います。
三つ目は、自分の卒論について。
今は、『学び合い』について、研究室の姿の変容を通して研究していますが、これがまず自分にとってとても大切なことになるなと感じました。同研究室という条件が、どれだけの恩恵をもたらしてくれているのかにも気づけるだろうし、今のゼミ集団が、師の『学び合い』の最高の状態というならば、それを分析したい。確かに、師は最近「俺はどうしている?」という形で質問に答えることが多いです。
それは、現に実践し、その形が自分たちであるからだと思います。
それを客観的に分析して、自分の中に落とし込めれば、間違いなく強い。
多くの方に、様々なことを気付かされます。
数年前まで、自分一人で何とかなると思っていたことが馬鹿らしいと思えるほどに。
教員になるまで。その最後まで自分が大学生としてできることが何か考えて、行動したい。