先日、山崎さんの授業を見学しに、静岡県にある小学校に伺いました。
山崎さんとは、群馬で行われたセミナーや昨年度の末に一度授業見学を行わせていただいたり、とてもお世話になっております。
ぱっと見は一斉指導の形式ですが、『学び合い』の理論のもとで一人一人に学習を成立させるということで、授業を行われている。
私は、超ファシリテーションの授業、なんて思って見させていただいています。
昨年度の時に、授業のスタイルや不思議なテストの形式、各教科での学習の様子を見せていただきました。
今回は、いろんな学年で理科の授業風景を見学させていただき、最後に山崎さんとお話しさせていただいた、という流れでした。
その流れに沿って、また振り返っていきたいと思います。
<授業見学①>
これは理科室での授業。5年生。溶液について、析出だったり溶解度につながっていく部分の学習でした。
昨年度に山崎先生が担任されていた子供達が各学級に分散しており、そのうちの数名もこの見学させていただいた学級にいたということで。
一年前の授業のスタイルを引き継いだ子供たちがどう動くのか、というところも面白く見させていただきました。
まず気になった発言として、「これテスト出る〜?」という発言。
中学校や高校なら結構聞こえてくる声かなぁと思うのですが、小学生から出てきたというのが少し意外。
自分の学習に対して、評価を受けるということ。それがテストであり、自分の学習したことを発揮する場を意識して授業を受けているということに驚きがあり。
でも、学習を成立させる、という目標だからこそ、そこに意識が向かなければ理解、わかるなんていう状態にはならない。
ということで、ゴールを子供たちが意識しているのがすごいなと思いました。
学習内容でも、子供達から出る意見や疑問の中には、中学校や高校の化学分野に関係する話が多く出てきました。
今回の授業は、食塩水とミョウバンの水溶液から、溶質を取り出すには?という授業。
教科書レベルであれば、食塩を取り出すには〇〇、ミョウバンを取り出すには〇〇。
そこで終わってもいい内容です。
しかし、子供たちは独自のイメージを持ち出し、温度と析出の関係について自分の言葉で説明しあっていました。
ある子は、水溶液と溶解の関係を、ホテルと客に見立てて、図で説明。
うん、シンプルでわかりやすい例で面白かったです。
やっぱりすごいのは、とにかく生徒の発話量を増やすことで、わからない子供も、誰かの、何かしらの説明に引っかかってわかっていくというシステム。
それは、単純により言語化されていてわかりやすいから引っかかって理解できる、というパターンだけじゃない。
言葉の相性とか、話している子と聞いている子の相性とか。
話している子どもの言葉と聞いている子どもの間で、共通言語があるかどうかとか。
そういう、いろんな条件をクリアした時に、なんか説明がわかりやすいな、聞いてみようかなってなっている感じ。
それが、結局『学び合い』で起こっている現象とほぼ同じ。
『学び合い』の授業では、先生1人の説明より、仲間たち30人の説明がある方が、何かしらに引っかかって理解できる、という利点がある。
しかし、うまくいかなければ、グループが固定化されて、考え方もそのグループでの理解に収まる。
山崎さんは、そこを超ファシリすることで、より多くの解き方、言語が全体に共有されるような仕組みを作っている。
言ってみれば、セオリーでの『学び合い』はグループが形成されて、固定化されてしまえば多くの情報は入りにくくなってくる。新しい考えに触れる機会も減る。
そこで、学級全体を一つのグループとして、そこで出されてくる意見を共有し、何かしらのわかるという条件に引っ掛ける。そんなふうな授業かな?と私の中では思っています。
見学していて以前も思ったことですが、やはりその学年に見合わない発言量、と言いますか。
私が教育実習やボランティアに行って感じた実態と、大きく異なっている気がするのです。
静かに授業を聞いて、先生が発言を求めても手を挙げる生徒が非常に少ない。
私の感覚では、高学年になればなるほどそうなっているような気がしていました。
しかし、山崎さんの授業ではほぼずっと発言が止まらない。
次から次へ、自分の言いたいことを発言する。
山崎さん自身は「それで?つまり?」という掛け声で、発言を促したり、
うまく言語化できていない子に対しては、もう少し話させたり、少しだけ言語化できている子に当てたり。
そうやって、言語化の精度が学級の発話から少しずつレベルアップしていく感覚。
最後は、短く、研ぎ澄まされた回答、言語化に落ち着く。
そこが、面白いところでもあり、私にはまだまだできない技術でもある、と思います。
<授業見学②>
次の授業では、①で見学した子供達が、出した案をもとに実験を行うというものでした。
実験は、準備ができたものから始めつつ。結構わちゃわちゃしている感じ。
実験しつつ、他の班の結果を見に行ったりする姿があったのが印象的でした。
面白いなぁと思ったこととして、子供が全体に対して話すときのこと。
子供達が基本的に自分の考えたことを、言語化を頑張ってしながら話してみるのですが。
みんなに聞いてもらう意識、それができている子が多い。
よく、一斉指導の形態で見られるのが、発表者が先生に向かって話す、先生の目を見て発表しているという状態。
これは何ぞ?といつも思うのですが、誰に対する、何のための発表なのか、というところ。
その点、見学に行った子供たちは、学級全体に伝えたい、わかってほしい、という気持ちが出ていました。
だからこそ、話している人は一点を見るのではなく、周りを見て、目線を動かしながら話している。
クラス全体に話しかけている感じ。
だから、聴く側もしっかり聞いている。
こういうのが、結局大勢の前に立って話す時に、緊張せず、しっかり自分の想いを届けるのに役立つなぁと見ながら思っていました。
また、授業か学校の方針か、忘れてしまったのですが、とにかくできるなら1人一実験。
子供達の中で、「やってないでしょ、やりな」というような声がけがあったのも素敵でした。
結局、実験は自分が手を出してやってみなければ、記憶に何も残らない。
全員が参加する、というのが大切な気がします。
<休憩中の会話>
実は、授業見学中だけじゃなくて、見学していない休憩中なんかの会話も、めちゃくちゃ学びがあったりします。
それもそのはず。それがアウトプットになって、より頭が整理されるからです。
一緒に見学に行ったのは、前日に瀬戸ツクルスクール見学に行ったメンバーのうちの数名。
公教育外の教育の場。その凄さに驚き、今後の自分どうしよう?となっていたメンバーでした。
実は、瀬戸ツクルスクール見学の予定が決まった後に、急遽山崎さんの授業見学をさせていただくお願いをしました。急なお願いだったのに、受け入れてくださった山崎さんや小学校の先生方には、本当に感謝しております。
本当は、2月だったりに行かせていただきたい!と思っていたのですが。
色々な理由があります。
越後の会でのつながりから、早く動きたかったということ。
県が近かった、という理由や見学者の予定もあります。
でも、何より。
結局、我々はこれから一旦は公教育の教員になる身。
瀬戸ツクルスクールの取り組みには、本当に驚かされました。
すごいやこれ!とも思いました。
でも、我々は、すぐにそういった場を作れるわけではないし、まず先生になる。
その時に、私たちはどういう選択肢を取れて、どこが限界で、どこまで願えるのか。
そこを、ちゃんと理解しなくてはいけないと思っていました。
だから、このような順番で見学させていただいたのです。
新しい学びの場。凄さに打ちひしがれる。それが最後に来ると、自分の指針を見失ってしまうとも思ったり。
だから、何ができるか。それを、見たかったというのが理由でした。
結果的に、自分的には大正解でした。理由は後から。
そんな話もしつつ。自分たちこれからどう身の振り方を考えていこうかね?って。
人の人生計画を聞くのも、すごく面白い。
<見学③>
次は3年生理科。山崎さんと授業前にお話しして、本来教科書に書いてある内容で終わらせるところを、もっと深い思考、目標まで行けないかな?子供達次第だね!というような話をしていました。
3年生はクラス合同で大人数。でも形式は変わらず。
話せる子が、クラス合同によって合体することで、より活性化している。
静かな学級でも、隣の学級の子が積極的に発話していることで、それに感化されて話し始める。
単純に、日向と日陰、どちらが温度が高いかという話だったのが、陰の話から「白夜」について出てきたり。
暖かさの話から、熱エネルギーの話になって、電気エネルギーとかいろんな話につながって。
単元横断とか、そういう次元の話じゃない。
子供達の疑問は、日常に根付いたもの。
だから、脱線するけれども、どこまでも理科の話ではあって。
それを山崎さんが受け、また子供に振り、つながっていく。
上越で、信号がLEDに変わらない話や縦型信号の話も出てきて面白かった。
そういう知識を教員が持っていることが、子供達が日常に溢れる教科に興味を持つきっかけになるなとも思いました。
ここからわかること。
山崎さんのような、超ファシリの授業で、次々に子供たちにかけて話していく、として。
もちろん、声を聞く耳はすごく大事ですが。
それと同じで、子供達がふと出してくる疑問。
その疑問は、中学校や高校レベル、もしくは大学の研究などのレベルでの質問、発話。
それを、どこまで受けて、整理して、適切に他の人にかける子ことができるか。
そういう、受け皿になる、大きな大きな皿、知識量や技量が求められるなと実感しました。
<見学④>
③からも感じた通り、この教員が持つ知識の受け皿。
これは、はいどうぞ、の形の『学び合い』授業でもいると思っている。
以前のブログでも書いたけれど、目で見るだけでなく、耳で聞いて、体で感じることが必要。
その時に、教員自身が、今日の授業で大切になるワードを持っていなければいけない。
それこそ、知識の受け皿。
具体的にどうこうするかとか、声がけをするかというのは人によって違うだろうけど。
私は、いい発問だったり、興味というのは、自分も気になるし、共有されるべきだと思っている。
難しすぎるなら、タブレットで調べればいいし。
そういう声を拾いたいからこそ、こちら側にも知識の受け皿がいるなぁと実感しています。
少し気になったこと。
これは見学して思ったこととは違い、いつも少し感じることなのですが。
言語化のレベルの話。
例えば、理科実験をしていて、水が蒸発してミョウバンが出てきた時に。
「きもーい」という言葉が聞こえました。
確かに、気持ち悪い見た目をしていますが。
では、何が、どんなふうに気持ち悪くて、自分はどこに対してそんな感情を持ったのか。
それがすっぽり抜けているように思うのです。
よくある、「すごい」「キモい」「ひどい」…
そういう言葉がありますが、じゃあ、何が、どんなふうに、なぜ。
そこを突き詰めていくのが、学習や興味を持つ上で大事なんじゃないかなって。
本来、興味を持てる、持つ可能性があったはずのものを、その一言で片付けてしまうのは、すごくもったいないなと思ってしまいます。
なんとかしていく方法はないか。。。
<山崎さんとの対話から>
授業が終わって、最後は授業での感想共有や質問を山崎さんへ。
・山崎さんの授業では、思考のスピードが求められるのでは?
これについては、セオリーと異なっている部分でもあり、今の社会に必要なものだ、と。
今は少し遅れてもいいなって感じてしまったとして。
じゃあ、その子はいつ追いつくのか。
いつ思考のスピードを鍛えるのか。
それが結局、社会に出た時の生きる力にもなる。
・学んだこと、理解の度合いの一つとして、学んだことを短く言える、ということ。
今回の授業でもそうでしたが、言い換えを重ね、何度も言語化することで、文章が簡略化され、最終的には教科書に書かれていることに集約されていきます。
それが、わかっていく、という意味。
・知識の受け皿。自分にはないんですが。。。
自分の質問として、やはり知識の受け皿が不十分なことが課題としてあるなと見学を通して実感。どうやったら。。。?という質問をさせていただきました。
まず、学習指導要領をよく読んで、教科の系統性をよく理解して、頭に入れておくことが大事。
今回の授業が、中学や高校の何につながっているのか。どの土台なのか。
そこを理解しておくのが大切である。また、知識量は授業をやってみて、経験でもある。
子供達から学ぶこともあるし。
中学校や高校の内容をまた復習してみるのも、自分が今からできる受け皿生成になるかも、というお話も学びになりました。
・私の学級の願いである「先生がいなくても自立した集団を作る」について
作るのは、多分できる。
例えば、先生がいるところで、まずやってみること。
子供達にある程度自由にやらせてみる。
そういう日を作っても良いかもしれない。あまり口出ししないデーのような。
それで、本当にやってはいけないことをし始めたら、注意する。
そこで、「やっていいライン」と「やってはいけないライン」を学ぶ。
これが、自立への道である。
また、いい行動については、すぐに褒める、クイックレスポンスを意識。
・思考のスピードって、全員に必要?
最近、それって本当に万人に必要なの?と自分に、物事に問う機会が増えてきました。
では、できない時に、人に頼る。その時に必要なものは、「人間関係」か「お金」。
「人間関係」は、そのまま。「お金」は、例えば弁護とかも一例ですね。
この人間関係について、学校生活全体でできるような関係値を作れるような組織。
でも、授業内では、結構難しい。
<2日間の見学の融合>
さて、ここがおそらく自分の中で一番のまとめポイントです。
子どもの一生涯の幸せを保証する学級。
力を貸し借りし合える仲間たち。
それが作れるのがベストです。
しかし、そうなりきれない。もちろん、教科学習の時間全般を使ってもそうだし。
学校教育全てを通して、やっていくことでもある。
でも、最終的に今の社会は、高校卒業後に分断されてしまう。
じゃぁ。どうやって一生涯の幸せを保証すればいいんだろうか。
学校では、できないのか。
そこでのひとつの解です。
まず、「一生涯の幸せ」を持つのは、集団ではなく、個人である。
集団でいることは幸せに近づく手段だけれども。
集団が幸せでも、個人が幸せとは限らない。
だから、
「人と繋がること、人の力を貸し借りすることが得であること。そして、いずれそれが自分の将来の幸せに繋がること」
それを経験して、身につけること、落とし込むこと。
そこが多分、公教育が子供に保証できる部分だなと。
そして、そこからは多様。
もちろん、地元に戻ってきて仲良くし続け、助け合うのもよし。
でも、それだけじゃなくて。
この考え方を持った人が、県外の大学や就職をして。
でも、「人と繋がること、力を貸し借りし合うこと」を実感して、良いと感じているから、どこに行ってもそこで所属した集団でそれを実践する。
そうすれば、その個人は幸せに繋がる。
こう考えると、自分の考えと少し違うことがわかります。
集団でいれば、幸せになれる、ではなくて。
集団でいることが、幸せにつながっていて。
その集団は、別に固定化された地元の学校メンバーだけじゃなくて、そこで生きていて、所属した集団で。
そして、最終的には、各個人が、最適な方法で、自分に合った幸せを見つけて、歩んでいく。
そういうことなのかなぁ、と思いました。
だから、瀬戸ツクルスクールでの感想の時にも書きましたが。
やれることとして。
①公教育の教員として
「人と繋がること、人の力を貸し借りすることが得であること。そして、いずれそれが自分の将来の幸せに繋がること」を、学校教育全体を通して、子供達に伝えていくこと。そして、子供達を、そういった経験や考え方を持った状態で学校外に送り出していくこと。
②社会人として。
教育と地域、企業がつながって、一本になっていくように働きかけたり、共に教育や幸せについて考えるイベントや場所を企画していくこと。
そういったことを通して、学校から送り出されてきた(卒業してきた)子供たちの受け皿になり得る地域、社会を作っていくこと。
これができると思います。自分が実行していくべきことだとも思います。
つまり、メインは公教育の教員として、教育の内側から、幸せになるための基盤を持った子供たちを送り出す。
社会人として、その受け皿になる地域、社会を作っていくために動く。
この感想は、学校外から教育を作っている場所。
学校内で、教育を作っている場所。
両方見ることができたからこそ、思ったことです。
本当にありがたい。
結局、そんなことを考え始めると、教員や教育の枠を飛び越えていく。
それは、地方創生だったり、社会学だったり。
起業、企業の考え方だったり。それはもうたっくさん。
視野が、ここにきてガッと広くなったように思います。
教育外の教育の場をみる、ということが今年度に入って見学の目標になっていました。
しかし、それでもまだ「教育」の枠組みではあった。
でも、もっとその枠組みを広げなきゃいけないなって思って。
今度は、そういう地域として何かしている場所だったり、祭りだったり。
地域と教育、企業と教育の結びつきを見たり、調べたり。
あとは、何より自分が就職する場所の特徴をもっと細かく調べる必要も。
卒論も、やらなきゃ。
やらなきゃいけないことばっかりで、起きたら勉強したくなるし。
じっとしてると、動きたくなったり、人と話してみたくなったり。
全然、一年前と変わったなぁという成長を感じつつ。
まだまだやれることはあるし、何も大学生のうち!と決めるべきことでもない。
一生をかけて、やれることをやっていきたいなと考えました。
長くなりましたが、授業見学の振り返りでした。
急遽、見学を受け入れてくださった、山崎さんをはじめ、藤枝中央小学校の皆様、子供たち。
大変お世話になりました。