今日もイワシ、はぐれてます。

海のような広い心で。

役割演技。けれど、演技じゃない。

先ほど、授業で「道徳のロールプレイング」をやってきました。

道徳では、役割演技といって教材における主発問(目標や授業のねらいに直結するような)部分で、児童生徒から演者を選び、観客と演者に分かれてロールプレイングを行うという手法があります。それを講義で取り扱っており、今は模擬授業のタイミング。

 

丁度一つの模擬授業を受けてきたところです。

教材は、小6道徳『ひきょうだよ』です。

いじめの内容にもかかわる教材。

 

その講義の先生は、「いじめのロールプレイングだけは決してやってはいけない」と言います。当然です。二次被害が高確率で起こる。それは、いじめる側が出るだけでなく、いじめられる側を役割演技した演者にも、相当なダメージが入る。その怖さがある。

 

今日の班は、とてもうまく模擬授業をされていました。凄いなと思います。

最後、主発問のところでロールプレイングを挟むことになったのですが。

 

演じる人として、私が選ばれました。

場面としては、いじめる場面では当然ありません。

前日にいじめられていた児童に謝り、卑怯だと言われた、傍観者であった主人公。

いじめられていた子どもが転校でいなくなる日に、傍観者の立場であった主人公が会いに来るという場面設定でのロールプレイング。

 

頼むから、演者として抜擢しないでほしいと思っていたのが、ロールプレイングの前の私の気持ちでした。ハッピーエンドになる未来が描けなかったからです。

一度いじめを起こしてしまえば、もう取り返しはつかない。

どんな言葉や態度で示しても、いじめられていた側の心が変化するとは思っていないからです。

 

そんな私は、いじめられていた子どもの役。

何度も言いますが、いじめの場面をロールプレイングしたわけではないです。

 

けれど、ダメージは大きい。ダメージというか、モヤモヤというか。

 

ストーリーを読んでいくうちに、その人の気持ちになっていく、その人物の経験が自分の経験にリンクし、埋め込まれていく。

 

小説を読んでいると、そんなことが良くあります。自分の経験ではないけれど、いつの間にか自分をその人物の重ね合わせて、自分だったらな。というのを想像してしまう。

更に、自分の経験と結びつけて考えることもある。実際に体験したことならなおさら。

 

今回もそんな感じで。だから、今謝られたところで、正直びくともしない。怒りが増すだけでした。

 

 

場面の設定、発問の仕方。すごく難しいなと感じます。

自分と重ねたとき。それまでいじめられていて、相手が自分に謝っているという状態。

相手の自己満足感。そして、立場が逆転したとなった場合に起こる気持ち。

許せるはずがないという気持ち、同じ目に合えばよいと思う気持ち。

 

これが、本当にいじめの場面をロールプレイングしたら、、、

なんてことを考えて、恐怖でした。

まして、自分がいじめられた経験を少しでも持っていれば、それが引き金になってしまう。

 

そういう意味で、いろいろ考えさせられる授業だったと思います。

実際にやってしまったらどうなるのかというロールプレイングの危険な授業展開のパターン。

 

そして、いじめられてた人が抱え続けていく気持ち。

 

 

道徳の、それもいじめに関わる教材のその重さ。重大さ。

改めて認識しました。

 

 

 

これは、決して授業をしてくださった方々や、先生の批判ではありません。

授業は素晴らしく、立て直そうとする意識、冷静な対応も素晴らしかったです。

ロールプレイングの方法も、とても効果があり、学びが深まるというのもよく知っています。

 

だからこそ、「いじめのロールプレイングは決してやってはいけない」という言葉の重要性がよく理解できたなと思います。

 

次回は私たちの模擬授業。どう展開していこうか、考えなくては。