昨日も学校にボランティアで入らせていただきました。
今回は初めての高学年のボランティア。
なかなか手に負えない子がいる・・・なんて聞いていたので、楽しみにクラスへ向かいました。
そこは、とてつもなく賑やかなクラス。
一人?クラス全員が超賑やか。
これから授業が始まるというのに、先生の話を聞く必要性を感じていないとばかりの。
一応授業が始まりましたが、、、
先生の一言一言に反応し、盛り上げ役が盛り上げる。
そもそも盛り上げ役がクラスの人数の二割ぐらいいて、みんな面白がっている。
よって、先生のモグラたたき注意状態が始まる。
支援員の先生方も動き出すが、、、
一つ静まっても他の部分は再発して。
おそらく、その授業を持っていた先生は、自分の計画通りに進まず苦労されているなと感じました。
では、ただ単純にうるさいだけなのか。
確かに、子どもたちはとても賑やかで、話が絶えませんでした。
けれど、意外にも話している内容はその授業でその先生が発する問いについて話しているのです。
それが激化することで、先生が抑えられないくらいに。
けれど、それがゆえに会話にあふれる面白い意見、本来狙っていると思われる意見も一緒に流れていっています。
更に面白いのは、子どもたちのほとんどがその学習内容において何を先生がさせたいのか、問いの答えは何なのか既に分かっていて。
だから、より発展させた話や、内容を面白おかしく解釈して話を変えていたように思うのです。
先生方が場を収めようと必死になる中、私は大変よろしくないのですが、
わくわくして、面白くなってしまったのです。
この子たちの賢さ、人との関係性、活発な討論力。
あれ、これ適切なゴール設定ができていて、そのうえ子どもたちの実力より少し上の課題を出してみれば、面白いように課題に集中して取り組むのではないか?と。
話したいことも、学びたいことも阻害していない。けれど、大事な核は抑えられる。
この子たちに授業をしてみたい。まぁ授業するといっても、私が出張って教えるわけではないですが。
そんな気持ちになって、正直ニコニコしてしまいました。
私はもっとボランティアとして仕事したほうが良い。
けど、子どもが楽しそうだと、もうそれだけで嬉しい。
賑やかさこそ、パワーになると思いました。
ちなみに、私の実習先のクラスでは、まだ『』を継続してくださっていて。
子どもたちに会えば、囲まれるし、もみくちゃにされます。
クラス全員呼んでくる騒動にもなります。嬉しいことですが。
けれど、変化もありました。
実習中ではずっと離れなかった子たちが、皆が来て、遊び始めるとそっと離れてみんなに合流するようになりました。
また、互いの顔を見合って、引き際(私が別の教室に行かなくてはいけないとわかっているから)を把握して、すっと切り替えるようになってきました。
同じ体育館にいても、私を混ぜようとはせず、「みんなでドッチボールしてくるぜー」と言いながら、クラスの子たちだけで遊んでいました。
あまりボランティアで関わることがなくても。少し会うだけで分かります。
明らかに子どもたち同士のつながり、集団として成ってきている。
担当してくださった先生の力量は間違いなく。その中に『』による作用もあったらいいなと思いながら。
先生とつながるのではなく、子ども同士でつながっていくこの関係性の方がやはり
健全だな、と思いながら、私は別学年の子どもたちと遊んでいました。
教師と子どもの適切な関係性、距離は必要だし、理解したほうが良い。
けれども、子ども同士でつながることができてきたならば、結果的に先生と子ども集団との距離は適切なものに定まっていくのだろうと思います。先生のもとは安全な場という理解ではなくて。本当に安全な場になる必要があるのは、子ども集団の中でだと思っています。
関わるクラスは異なるようになっても、遠くから実習先のクラスの子たちを見守ること、成長を感じることができて嬉しかったです。