先日、ある学校にボランティアとして参加してきました。
支援に入ったクラスは、とても賑やかで、元気いっぱいのクラス。
担任の先生がお休みされていて、非常勤の先生もその日たまたまお休みだったため、
クラスの盛り上がり具合はすごい物でした。
授業でもどこか集中しきれない部分があったり、講演会中にもだらけてしまう姿が見られたところもありました。
自分は、そこのボランティアに入っている。何とかしたい。
そう思います。
でも、私は何もしてあげられないことを知っています。
私が個人とつながりを持って、変えていくことはできない。
その子の人生を背負うこともできないし、そもそも救ってあげられなどしない。
それを救えるのは、そのクラスという集団だけであるとわかっています。
だからこそ、悔しい。悲しい。
自習監督を任されて。
とにかく静かに。早く終わったら読書。
中には、分からない友達に教えてあげようとしている子もいます。
けれど、先生からしたらそれは注意対象。
はたまた、誰とも相談できず、自分で考えてもわからないから。その時間は「忍耐の時間」になる子どもも。
きっとどこかしらで、皆分かりたい!と思っている。
けれど、長い間その欲を抑えられ、できないこと、分からないこと、一人でやることが当たり前になった時。それが「諦め」になって昇華されてしまうのだと思います。
どうせ自習の時間ならば。一授業任せてほしい。『』でやらせてほしい。
そう思いながら、目の前の光景をボランティアでつらい気持ちで見守る。
教育で本当に必要なことは何なのか。何が大切なのか。
よく考えなくてはいけない。