ブログやインスタグラム、フェイスブックを通して発信していく意義がどのようにあるのか。
特に、何か写真を投稿したりするわけではなく、自分の思ったこと、考えていることを伝えること。
自分がどういった人間か知ってもらうこと。
言葉を整え、表現する力を付けること。
そもそも、自分の考えを持つ、それを持続させ、維持すること。
ゼミで、師が退職された後のことについて質問をしました。
本当に価値あるものに関わる。
それは、両者ともにそういうことだなと思います。
私は、今のゼミの形式が好きです。
研究し、実践することを、そもそもゼミ集団が行っている。
そうすることで、学ぶこと、感じること、考えることが多くなります。
週一回の質問するゼミ。
形式的には、これがゼミ活動の形として周りからはうつるとおもいます。
ゼミで何やってるの?と聞かれれば、確かにこう答えます。
けれど、本当はそうじゃないと思っています。
本体こそ、そのゼミ集団であって。質問のゼミや師との対話もその一つであって。
だから、その集団に属するということ、そこで日常的に「いる」ということがうちのゼミの本体?というか、うーん、一番学びが増える形?なんじゃないかなと思うのです。
少なくとも、やりたいことをやれる。形式は自由。個人の自由も尊重されている。
けれど、集団として誰一人も見捨てないことを徹底する。
だから上手く回るのだろうし、自分で得た経験が、そのまま理論として落ちてくる。
だから、もったいないと思ったのです。師が退職されて、この形態のゼミが残らないというのは。それに、今の一斉授業型の教育は崩壊し始めていると思います。
行きつく先は、フリースクールのような自由に、思うように学び、遊び、繋がれる学校。それを保証できず、一律、一斉、工業科社会のコードにこだわる学校は淘汰されていく。
その中で残る公立学校などで、子どもの幸せを保証したいと思う先生が『』にたどり着いたとき。それについて、師について、その実践を身をもってできる環境がなくなるのは、もったいないと思ったのです。
けれど。その居場所も、理論も。自分たちが実践して、つなげていく必要があるなと思いました。
まずは個々人から。
来年は最後の一年。
今後の『』についてもたくさん話し合うことが出ると思います。
今の気持ち的には、地域に縛られた(縛られているという悪い言い方ではないですが)『』の会だけでなく、一般の先生方も混ざって話し合うことができるような、各教科の『』の会(全国)ができたら面白いのかな?なんて。
もうあるかもしれませんね。
現状の維持、拡散、発展。新しいつながり、考え方の普及。
発信の意義の中にはこんなのもあるのでしょうかね?