今日、ある小説を読んでいて考えたことがあります。
以前、上越の会で話題になっていたことでもあり。
「自由」って素敵な響きのように感じます。
いろんな場面で使われるなとも思います。
中学校や、高校で。勉強がうまくいかなかったり、やる気が出なかったり。
あ~、勉強から解放されて自由になりたいなぁとか。
働いて、社会に出てみて。仕事きついなぁ、自由になりたいなぁとか。
大学に出てくる際に、親元から離れて自由になりたいな、とか。
自由を求めるとき、何か見えない呪縛、縛りのようなものを感じていて。
そこから解放されたいと思うときに、自由を求めるのではないかとも思うのです。
けれど、自由って、そんなに簡単なものなのかな?と思います。
自由っていうのは、自分で考え、自分で行動し、そのうえで自分の行ったことに責任を取るということだと解釈しています。
自由って、そんなに甘くないんじゃないかな。
むしろ、適度に縛りがあることによって、今何をすればよいのかが分かるし、自分の立ち位置もわかる。ある閉鎖的な空間にいるとして、そこに縛りがあるから、うまく立ち回れることもある。
縛りやルールは、実は厳しいようでいて、自分たちにすごく優しくて、それでいて簡単。
だから、実は今の学校で、規則に縛られていたり、やりたくない勉強をさせられているというのも、実はとっても優しいレールが引かれているのではないかなと。
これをしたら良いよ、という基準が設定されていて、ちゃんとそれに則れば、上手く生き抜くことができるようになっていて。
そして、それは小学校から大学まで引かれていて。
今の段階で、そこから抜け出して自由を得られる人たちは。自由を得て幸せになれる人たちは、結局自分の頭で考えて、行動して、最終的にはその結果に責任が取れる覚悟がある人だけなんじゃないかなと思います。
その点で、『学び合い』は本当に厳しい。
『学び合い』は人間そのものであり、生きていくということそのものであると考えます。
それは、一斉授業のように優しいレールは引いてくれない。
自分で考え、行動し、つながっていく必要性を身をもって経験していくことになる。
それが過酷で。けれど、よほど人間らしくて、人生らしくて。
大学卒業後、レールがぴたりとなくなってしまうようなものでなく、
自分たちで幸せへのレールをちゃんと引いていけるような。
そんな時間を、仲間を作ることこそが本当の教育ではないかと信じて。
教壇に立たなければいけないなと思います。