あまり良い気持ちをしないエピソードがあります。
簡単に言えば、人が人を見て嗤っていたということ。
笑うではない。嗤う(わらう)。
見下し、わらうということ。
私は、そういうのが本当に嫌いです。
嫌な気もちになる。
嗤った人間は、嗤われた人間の努力を知っているのでしょうか。
その人は同じことに同じ分だけ努力ができるのでしょうか。
私は、嗤われた人と同じ仕事を経験したことがありました。
難しいし、上手くいかないことも知っています。
それを成し遂げるために、きっと努力したのではないか?とも。
そして、努力したうえで、やはり難しかったことも。
私は知っていました。
嗤った人が、そういった仕事を回避し、人に任せていることを。
人は、他の人の背景に気付けない。想像ができない。
その人の生い立ちもわからない。
どんな経験をしてきたかもわからない。
では、一方的にひとをわらうべきではないと言えるかというとそうではないです。
私も、そういう経験があります。後悔していることも。
日常の「いじり」ですら、やはり相手がどう受け取っているのか見えるものではないです。
大切にしたいことは、相手の背景を常に考える意識を持つこと。
その人が無理をして笑っていないか、空元気ではないか。
自分は、人として本当に正しい発言ができているのか。
ずっと俯瞰して考えなければいけないと感じています。
それと同時に、自身が経験したことでなければ、やはり相手の背景にあるものに気づくことすらできないとも思います。
沢山の心情を経験して、それでやっと少しだけ、ほんの少しだけ相手の気持ちや立場に寄り添うことができる、相手を思いやることができると思います。
そんな簡単な話じゃないし、そんなできた人間でもない。
でも、目指すべき人としての姿は、輪郭はそんな感じだと思えるのです。