最近、ゼミの先輩が読んでいる本で、気になったものを購入して読んでいます。
表紙は何かの小説のように思えるほど美しい絵から始まっています。
私がこの書を手に取った理由は、ゼミの先輩が読んでいた感想を見て面白そうと感じたこと、本の帯に書かれていた、「好きなことしてちゃだめですか?」という言葉がとても気になったからである。
誰しもが一度、学校生活を送る中で、なぜ勉強しなければいけないのか。なぜ学校に行かなければいけないのかと考えるのではないかと思う。
私もその一人だった。好きなこと、やりたいことがあれば学校に行くことに抵抗感を覚えた。そもそも、勉強すること、学ぶこと自体は嫌いではなかったが、なぜ全員と足並みをそろえて学習するのかに疑問を持っていた。
そういった気持ちを思い出させてくれた表紙ともいえる。
全て読んだわけではないので、冒頭で考えたことだけ。。
冒頭では、学校という組織がどう成り立ってきたのかを歴史をさかのぼって振り返っていった印象を受ける。
倫理などで何度か聞いたことのある偉人や著書が引用されていて面白い。
教育の根源はこういった部分からあったのかと納得させられる。
中でも、特に面白いと感じたのが、フーコーの『監獄の誕生』から引用されている、「教育や医療のような公共サービスによくみられる管理システムのルーツがパノプティコンにある」というものである。
パノプティコンとは、19世紀イギリスの法学者ジェレミー・ベンサムが発明した刑務所である。特殊な構造をしたその監獄は、囚人たちに自分が常に監視されていると思い込ませることによっておとなしく服従させる仕組みとなっている。
これにより、自ら進んで規律を守る人間、監守がいなくてもちゃんと命令に従う人間
つまり機械化された人間を作りだすことができるという。
ここで私はうん?と思った。自ら進んで規律を守るような機械化された人間。。
まるで今の学校のようではないのか?とも。教員が児童たちを一斉に席に座らせ、話を聞かせる。ルールを守らせ、いずれ社会の基盤となるような人材を育成していく。
少し監獄と学校を重ねてみてしまった。
事実、この本にも、「学校は、監視・賞罰・試験という三つのメカニズムの複合体である。規律や訓練で子どもたちを秩序の中にはめ込み、生徒が自ら服従するように巧妙にできている。こういった子どもの自主性を引き出そうという教育的な配慮は、実は服従する人間を創り出す権力のメカニズムの一部である。」とある。
また、このメカニズムによって、学校内では学力という物差しでのみ人間を図っているように感じる。それが結果的に大人になった後、頭が良い、悪いという基準が学力差で生み出され、それが人間の上下関係になってしまっている。
また、読み進めていく中で、「ならない」にしたがうのは思考停止の表れであると書かれてた。
常に常識や、当たり前という言葉が本当であるのか。自身はそれをただ何も考えずに受容しているだけではないのか。
常に思考していくことの大切さを学べたと思います。
早く次の章も読みたい。