卒論の動画を漁っていた中で、過去に自分がした質問動画がありました。
面白いことに、昨日師に質問したような内容でした。
リビングでやっていたこともあり、興味があったのか母親も視聴。
その時の質問も、取捨選択、自分の時間が有限であること、何をするべきか、という質問でした。
師の回答はこう。
「物事を成す人間というのは、限ってんだよ自分のやりたいことを。だから、やりたいことを3つ選べ。三つ選んでやっていい。おそらく一番目はパートナーであると。その後二番目三番目をすると。それ以外は諦めろと。いうふうにやったわけ。〜〇〇(自分の名前)も、自分がここだけは譲れない、これはやりたいというものは残していいよ。それ以外は、諦めな。あ、もちろん、凡庸な、でそこそこでいいなら終わりだけどね。言っとくけど、それは社会的な成功だけじゃないからね、家庭的な幸せにおいてもそこそこ。家庭的にも時間は限られる。時間の選択しな。」
今、成すことは卒論です。選択します。また、身が引き締まる気持ちでした。
そんな話を聞いていた母親。
「事を成すかぁ」なんて言って。
「〇〇(自分の名前)は、以前、、大学入る前とか、ゼミに入る前よりも、こうしてやるんだ!教育を〜みたいなのが少なくなったような気がするね?」なんて言われました。
確かに、以前はすごく意気込んでいたし、教員とはこう!みたいなのもあった気がします。
なんでそれが薄れたんだろうか、と考えて。
まず、薄れたのではないし、心の中にはあるんだろうなというのが一つ。
もう一つ思ったことがありました。
自分が先生になりたい、なんとかしたい、という原点は、中学校の数学の授業でした。
自分は数学が得意だったのもあり、なんでこんな教科書読めばわかるものをゆったり板書したりしてるんだろ、ってイライラしたり。
でも、横を見ると、そもそもその板書でも、教え方でもわからずに、べんきょうもういいや、なんてなってる人がいました。
教えてあげれば、すごくよくわかるし、楽しそうにする。
この先生は、この授業は。一体誰に向けた授業なんだろう?って思ったのが始まり。
でも、これってどこまでも「学力」に対しての考え方だったんです。
ゼミに入って、本を読んで、問答をして、いろいろな方の話を聞いて。
「学力」が「幸せ」を保証しないことを知りました。
最初に抱いた、学力的な問題をなんとかする授業を作っても、「全員が幸せになる」ことがなせるわけじゃない事に気づきました。
きっと、そこで大きな転換があったんだと思います。
わかりやすい授業、面白い授業。
そのためのテクニック。
それで、「全員の生涯の幸せ」が保障できるのか、ということ。
それは、授業改善とか、そんな小さな話じゃなくて。
きっと、一授業でもないし、一学級でもない。一学校でもないし、一地域でもない。
学級という枠を超えて、子供達は将来社会に出ていって。
結局、学校の中で何かを成すならできる!と思って考えていたけれど。
ゼミに入って、本当に変えるべきは、自分がよく向き合って、考えるべきは、もっと広く。
そう考えた時から、多分口に出して、こうしたい!っていうのを言わなくなったんじゃないかなって。
それは、多分自分の今の無知さだったり、力不足もあるし。
現場に出なければ見えない課題感もあるはず。
諦めたわけじゃないけど、そういうのが、熱量を静かにさせていったのかなぁって。
親曰く、「それは大人になった、ということじゃない?」と。
そうも思う。根本的な気持ちが変わったわけじゃない。
そのスケールが、自分の中で大きくなっただけ。
そんでもって、きっと自分1人で解決できる範囲じゃなくなったんだなって。
一学級レベルならば、もしかしたらなんとかできるかもしれない。
でも。学校外まで視野を広げれば、そこへの変革は、1人では難しい。
だから、繋がる意義がある。
さて、自分はいろんな会や授業を見学させていただく機会があったけれど。
なぜ、自分はそういうところに行っているのか。
最終的に、自分は何を成したいのか。具体的には、卒論が終わった後。
何を思って学校現場にはいり、何を成して現場を退くのか。
師の言う、「物事を成す」と言う言葉が、重く刺さります。