今日もイワシ、はぐれてます。

海のような広い心で。

一握

昨日、高校時代の担任の先生方とお話しする機会がありました。

その中で、私が高校三年の最後の時に、本当に良い言葉を残してくださった人がいました。

 

その先生は、高校最後の時にクラス全体にこう語ったのを覚えています。

「将来、最終的に本当になりたい職業について、やりたいことをやれる人間は一握りである。」

私にとって、この言葉は、最初は結構いるんじゃない?仕事している人はたくさんいるわけだしなぁ。と思っていました。

 

けれど、時間が経つにつれてそうではないことに気づいていきました。

この言葉をいただいたのは、おそらく受験、共通テスト前だったはずです。

 

やりたいことというのは、いつ見付けるのか。人によって異なります。

まず、その時期的なものによってもそういった人生を送ることができるかは変わってきます。確かに、どの年齢からも、どんな環境からも、相当な努力をすればある程度のことは叶う。けれど、それは理想でしかなくて、そうできる人間もやはり一握りであると思うのです。そういった本当にやりたいことに出会う時期が一つ目に大切。

 

受験期の前にお話しされたということで、やはり大学受験というのも大きくかかわるでしょう。その大学でしかできないこと、学べないことというのはやはり実在します。

私も、おそらく今の大学でなくては大きな成長も学びも、あったかもしれませんが今の自分にはなっていないと確信できます。

決して、志望校を変更したり、希望する大学に行けなかったことを批判するつもりは全くありません。むしろ、そこでの出会い、新しい発見があり、結果的にその人にとってもっと良い未来をつかむ可能性もあります。それはその人がどこで学ぶかでなく、その場で何を学び、どう価値づけするかが関わってくると思います。

おそらく、一握りというのは、すべて予定通りにいくことを指していると私は解釈しました。

そういった大学受験という節目で一つ。

 

他にも、そもそも高校、中学、小学、幼稚園受験などの節目で一つの要因としてあるでしょう。幼稚園という段階で何かをやりたい、人生を決めている人はそれこそ本当に一握りでしょうけれど、その時点での保護者の選択も影響してくると思います。

 

お金の問題や人間関係の問題。本当に人生とは様々な要因が複雑に絡まっていると思います。

その中で、自分の目指すゴールまでの糸を確実に手繰り寄せて、迷わずに突き抜けることができる人。それはやはり一握りなのでしょう。

学校にいるときには気づけなかった現実。より多くの大人の人、社会人、大学生、その人たちと話していくことで見えてきたことであり、考えさせられたことでした。

 

そして、昨日はそこに続き、本当に励ましとなるような、それでいてこの一握りの言葉の重さを体感するような言葉をいただきました。

 

「そもそも、教育実習というもの自体を心から楽しめているということが…」

「即戦力だね。」

という言葉。上の言葉はこの一握りという重さを体感した言葉です。まだ壁は続きます。たとえ希望通りに大学に入り、学びたいことを学べて、順調に思っていたとしても。実習やインターンで職業のリアルという壁に当たったり、想像していたものと違ったり。

 

本当に残酷です。自分の努力で。自分が引き寄せる要因でその一握りになれるのであれば、簡単ではないけれど、無理でもない。けれど、現実はそれ以外の要因が大きすぎる。正直、自分にはどうしようもないこともたくさんある。

「一握り」という言葉の重さ、そのつらさ。

 

そういったことを考えたとき、私は本当に多くのことに感謝しなければいけないと思うのです。恵まれすぎている。無事に生まれて、夢を持ち、それを叶えるためにどうしたらよいか考えることができ、その見本となる先生方と出会い、どこまでも支援してくれる家族がいてくれた。今の環境であっても、本当に学ぶのには良すぎる環境をいただいている。感謝しかないです。

 

でも、すべてがうまくいったわけではもちろんない。

その時に、その失敗や挫折をどう受け取るか。成長、学びと捉え、何としても目標までの糸を手放さない。理不尽なことや苦痛な周りの環境にすら、出会えたことに感謝して、学びととらえることができるのならば、それは気づいたときには一握りの中に含まれていると思うのです。

 

全員がそこを目指す必要なんてなくて。けれど、何かを成し遂げたいとかそういう風に思うのであれば、努力・受容・感謝は必須なのかなぁと思っています。

 

明日から実習。ただ楽しく、無難に乗り切った実習では終わらせたくない。

一日、その一瞬から搾り取れる分だけ学び、自分の目指すところへの最短の糸を離さぬように。