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授業を進めていると、子どもたちの理解のペースが思っていたより数倍早く、とんとん拍子で進んでいく時がある。
そういう時、自分の気分も乗ってきて、子供達を褒める言葉や、みんなでやろう、という高まった言葉が語りとして溢れることが多い。
だが、逆もある。
自分の解説が、打っても打っても響かない時である。
当然学級の雰囲気や疲れ具合、何より私の説明の仕方もあるのかもしれないけれど。
そういうことは、ふと起こる。
今日がまさにそれ。
と言っても、わかる子にはすぐに伝わる。
学級が2極化される。
単元は、4年分数のラスト。引き算で、帯分数同士の引き算。
引き算をするためには、引かれる数が引く数より多い必要があるが、そうではない時、整数部分から持ってきて引き算をする、という過程がいる。
そこがすんなりわかる組と、そうではない組で分かれた。
1時間の中で、すんなりわかった組はどんどん進み、単元末のまとめ内容をほぼ終わらせてしまった。
確かに、わかる人にとっては分数計算は時間がかからない楽な単元である。
逆にわからない人は、すごく困った。
頑張ろうと思うのだが、整数から下ろしてくる、という感覚が掴めない。
そのまま1時間が終わろうとしていた。
次の授業は、国語。私の授業だ。
迷いが生じる。
国語も遅れるわけにはいかない。
けれど、今日全員がこの算数を分かり切らなければ。もし微妙に感覚を掴みかけている層をそのままにし、一日祝日を挟めば、間違いなく木曜日にリセットされているであろう予感。
正直に子供達に話す。迷っていると。
そうしたら、ほとんど全員が、このまま算数を続けて全員がわかるようになることを選んだ。
そう決まれば、こちらも腹を括る。
一度休憩をとって、仕切り直して授業を始める。
ここからは、完全に私のお願いだった。
まず、自分の説明では全員がわかる状態にはできない、ということ。
自分が説明できても、このレベルだ、ということ。
でも、君たち全員でやれば、特に余裕で終わっている人たちの力も合わせれば、全員がわかるという状態にグッと近づけること。
使えるものは、全て使って良い、ということ。
そして何より、自分が全員をわかった状態にできないことの悔しさや申し訳なさ、そして、みんなを信頼して、お願いする、任せる、ということ。
そこからは、早かった。
そしていつも見たことがない光景がそこにある。
わかる人とわからない人の割合で言えば、おそらく7:3くらいだったと思う。
そのうちの7が大体平等に分かれて、3に付く。
それぞれがタブレットやホワイトボードを持ち出して、思い思いの解説をする。
中には、私の教え方とは違う、けれどずを使ったりその人がわかるために必要な、最低限の説明を行う子もいた。
わかるようになるために何度も説明をして、伝える努力をして。
時にはその子のために、問題を解いているときは何も声をかけず、答えの確認を一緒にやって盛り上がったり。
自分の力を試したり。
当然全員が完璧にできるようになるわけではないし。
4年生くらいになると、概念理解という時点で、どうしても差が出てくると思う。
それは、漢字の書き取りだとか、暗記だとかと違って。
単純に経験や物の見方に依存するから。
だから、全員がわかることを求めるけれど、本質はそこではない。
互いがわかり合おうとするために、わかる人は言葉や教え方を変えて思考し。わからない人はまずわかるようになるために説明を聞き、自分で咀嚼して考え、実践する。
『学び』において、その過程こそが大事なような気がする。
この時点で全員がわかる状態にならずとも。
それがきっかけで、もしかしたらいつかやろうと思って、すんなり理解できるかもしれない。
きっと、そこでできたつながりや、人と学び合う経験こそが大切で。
だから、いつもの協働学習とか、『学び合い』とは違った、得と徳が混じったような集団の姿が見られた気がしていて。
今日の授業は、すごかったなぁ、と心から思う。