今日もいわし、はぐれてます。

海のように広い心で。

深夜のつぶやき

1730

昨日Facebookで深夜に投稿した独り言。
その独り言について考えながら、もやもやとして学校に行って。

結局、子供達にこんな事を考えたんだ、と話したりして。
結構真剣に聞いてくれていました。

今日は研修会があって、遅くまで学校に残る。
明日は持久走。頑張れ。

 

<昨日のつぶやき>

日付が変わる。風呂の中で考える。
現状、集団を見れば上手くいっている、と思う。
だが、個人を見るとどうだろうか。
個人は変えられないと言うけれど、集団の力があれば、変われる可能性がある。
教員は、その環境を作ることもできるし、潤滑剤と呼べる教材や課題を提示することも出来ると思う。

だか、正直に言えばその努力を行うのに葛藤がある。
その努力をして、例えば魅力的な課題が生まれて。だけれど、わからない人や学習面に特性を持つとされている子供たち(正しい表記かはわからないが)が満足し、爆発的に分かるようになるかと言われたら、それもまた難しいのだと思う。

そんな前提を踏まえて授業を考えた時、どうしても行き詰まりと限界を感じる。ま、半年弱の教員に限界などわかるか、と言われればその通りだが。

故に葛藤を感じる。

そして、こうも思う。
今の学習が分かる🟰幸せになれる、とも限らない。
当然、今の学習がわからない🟰幸せになれない、なんてこともないと思う。

でも、今の学習が分かると、幸せになれる可能性が高くなる、とも言えるし。
今の学習がわからないと、幸せになれない可能性もある、とも言えるということ。

人によって幸せの定義は違うので、なんとも言えないけれど。

少なくとも金銭面には深く関わる話だと思う。

以前ツクルスクールでお話を聞いた時、中・高の成績が、そのまま将来の年収になっている、というようなグラフを見せていただいた。

今の日本において、それは間違っていない気がする。

そうすると、上位層は上位層のまま行き、下位層はそのまま行く、逆転が起こりにくいということにもなる。

となった時に、義務教育の中で、分からないで溢れ、授業時間も分からないが続いてしまう状態ならば、その時間は自分のなりたい職業のために経験を積む・適切な学習に取り組む時間になった方が良いと思うのだ。

けれども、今の学校教育、義務教育はそういう形になっていない。わからない状態でも、言い方は悪いが引きずってでも次の学年に上げてしまう。

となると、社会の体制自体考えなければいけない。
勉強が全てでは無い、と言いたいが、それを言って実行させてあげられるほど、今の社会はいいようにできていないと思う。
当然、努力して学習に向き合って、それが汲み取られる社会であるとも言えるのだけれども。

さて、そもそも卒論でやった事だが、『学び合い』のスタートは、全員がわかる教員の説明など不可能であるからこそ、全員が教師になり得る方法をとる、ということであったはず。
つまり、『全員が学習においてわかること』を目的に始まった。

でも、現代において少し考えなければいけないのは、学習がわかった🟰幸せに生きていけるという構図が成り立たない可能性があるということ。

だから、生き方レベル、なんて言うが、学習ではなく生き方重視のスタイル、生き方を伝えていくという『学び合い』の形になっていった。

さて、なんでこんなに悩んでいるか、ということだけれども。

現状は、すごく楽しいのだ。楽しく仕事をして、帰ってきてからは好きなゲームにのめり込める。
幸せな生き方といえば、自分でも納得できる。楽しい。

けれど、卒業の時に掲げた目標とは、路線がズレているとも感じる。

教員になった後の夢や、教員として、また大人としてやりたことが他にあった。
ではその生き方をできているかといえば、そうでは無いように感じる。

後者は自分にとっては努力が必要で、大変なこと、というイメージ。
前者は正直めちゃくちゃ楽だ。

自分が幸せでなければ、子供たちの幸せを本気で願えない、と思っているが。
では、楽に生きることが幸せなのか?とも感じている。

要は、自分の生き方への迷いということだ。
学級集団を見れば満足いくものだが、個人や、もっと範囲を広げればそうとは言えなくなってくる。
それを何とかしようと思ったり、社会に対して何科行動を起こすのであれば、努力が必要になる。

すると、今の楽で自分だけ幸せだ暮らし、というのは難しくなるとも言える。

結論を言えば、学びを主軸に据えながら、楽しいことも継続できる部分は継続する、というのが自分にとって一番の解決方法なのである。

改めて、日々の中に小さな、でも確実な学びの場面を取り入れていく必要性を感じた。

長い。1時半に書く内容ではない。寝ます。