教員になって、やっと本当の意味での、『生き方レベル』がわかってきたように感じた一日。なぜ、『授業レベル』ではなくて、『生き方レベル』になっていったのか。
昨日、多様な学びについて学んだ後家に帰ってまた学校のことを考えていました。
先週、ずっと引っかかっていたもの、大きいモヤモヤの正体が何かということに気づきつつありました。
大きく分ければ、二つ。
一つは児童への個別対応に関して。
もう一つは宿題について。
結局、めちゃくちゃ悩んだ末に、信頼している方にまた相談させていただきました。
遅い時間にも関わらず、適切に話を整理し、解決策を提示してくださった。
本当にゼミでの2年間でのつながりに救われることばかりです。
さて、私の愚策をお話ししましょう。
宿題の取り組みについて、面談の際にお話をいただくことがありました。
また、学力的なお話も。
最近では、頭の中に「学力」という課題がべっとりと染み付いていました。
個別対応のことについても考え始めたことも、それが原因です。
ま、その時点で『』的には愚策なわけじゃないですか。
愚策は、もっとありました。
宿題をやってきていない状態、それを当たり前にしたくないあまりに、やってきていない人は休み時間にやる、というシステムを作ってしまった。
これが、本当に愚かでした。
結局単元と関係ないところを適当にこなして行ったり、もうやっつけ仕事状態。
何より、そこで子供から相談されたこと。
そもそも、ドリル内容がわからない、ということ。
また、それ自体、ドリルの内容というよりも、前、前々学年の内容がわからないから困っている、というもの。
そのことを伝えてもらったときに、本当に自分の愚かさに気づきました。
今の授業がわからない、それに関係する今の学年よりも前の内容がわからない。
なのに、わからない内容が宿題に出てくる。
できるわけがない。答えをうつすか、やってこないか、という選択肢か、取れない。
そんな状態で、休み時間にそれをやるということは。
答えを写してでも、やる、という機会すら奪うことになる。
本当に、失敗だったなと感じます。
そして、改めて宿題とは?ということに向き合うことになりました。
現状は、ただやらされてやる学習になっている。
すでにわかっている漢字を何度も書取りしたり。
わかっている計算を何度もやったり。
先に進みたい子の邪魔をしている。
また、わかっていないのにドリルで課題が出る。
だから、わからないという現実だけが残る。
わからない子に、苦痛を強いている。
そういうこともあり、本当に申し訳なかったなと思っています。
では明日からどうするか。
まず謝ることから始めて、改めて家で学習する意味を伝えていきたい。
その上で、もっと子供たちの学習の幅を持たせる。
つまり、宿題ではなく、自学。
自分の苦手に応じた内容を、自分の加減でやってくる。
当然、少しルールは作るつもりではあります。
保護者の方にも安心してほしいし、子供達にとっても実りある学びになってほしいと思いますから。
そういう、いろんな作戦を立てました。
結局、そういうことを考えてみると、自分の作った宿題の制度って、どこまでも『』的じゃない。
そういうことに気づいて、今日は一日授業を考えながら、自分の日々について考える。
最近もまた、笑顔がなくなってきています。
理由は結局、自分。保護者や他の先生方の目や、もしかしたらこう言われてしまうかも?という憶測で考えて、自分の自然さが失われていました。
子供は、教師を写す鏡。
自分に笑顔や余裕がなければ、子供達にも同様のことが起こる。
色々な理由を考えました。
結構大きいな、と思ったことがいくつか。
例えば、学校外で、学校のことについてめちゃくちゃ考えてしまっている、というところです。
家に帰ってきて、お風呂に入るときや寝る前も、学校や授業のことについて考えてしまっています。
それは、楽しい記憶ではなく、ダメだったなぁと思う面やこれからの課題について考えてしまっている。
勤務時間が終わっているのだから、そこを考える必要もないのに。
結局、そこで勝手に想像して、思い出して、負の連鎖に入っているんだなと。
職員室に残り続けて残業する、というのもそうです。
学校に残れば、学校のことをたくさん思い出す。
新しい知識(『』実践者の方の投稿や自分の幸せになるための知識)に触れる機会も減ります。
逆に、個人の対応についての話が出たりして、その子はこういう子だ、という「個を見る視点」が育って行ってしまいます。
その育った視点は、良いものを見る視点ではなく。
課題や、解決方法を考える視点なのです。
では、それは本当に必要か?教員一人でできるのか?というところは気づいた時には頭から抜け落ちています。
だから、早く帰って、自分の好きなことに触れたり。
やるとしても、誰からも干渉されることなく、楽しく授業を作ったり。
そうしていくべきだったのだなと感じます。
ね、そうすると、『』がなぜ生き方レベルになっていくべきなのか、わかってきます。
自分が幸せであることが、本当に大事だからです。
それはもちろん自分にとっても、学級にとっても。学校にとっても。
小手先の技術や、教材研究よりも。
自分が幸せに暮らして、仕事は仕事、プライベートはプライベートとし。
その仕事の時も、幸せであれば、子供達を見る目も、また将来を考える思考も、冴えている状態にできる。余裕がある状態になる。
だから、生き方を充実させろ、と。
家庭と、お金。
そこを持てれば、まず幸せに近づく。
その上で、やりたかったら、楽しんでやるなら教材研究をしたりするのもあり。
あぁ、そういうこと、なのかなぁ、と。
『学び合い』が生き方レベルになっていった理由。
そうすると、『学び合い』ミッションと『学び合い』ナチュラルについても、話がつきます。
結局、根底に自分の自然さ、教員という職を含めた人生を楽しんでいるか、幸福を感じているか。
また、その気持ちで学校に行き、それを伝えているか。
幸せである自分の目で、子供たちの将来の幸せについて考えられるか。
疲れ切った、教材に囚われて、個人にとらわれ、課題に囚われた状態の曇った目で、本当に子供たちの将来の幸せを見通せるか。語れるか。
だから、『学び合い』はナチュラルであるべきで。
その自然体の中に、ミッションを加えようと、教材の面白さを出そうと。
それは、その人の幸せの一環になっている。
ベースが、自己の幸せ。
それがなければ、子供たちの幸せも、たのしい、精神的に、集団的に安心・安全の集団を作る、環境を保証することも、できないのだなと。
そういうことを感じて、わぁ、と思っています。
もっと楽しめ。囚われず、縛られず、もっと自由に、自分のやりたいことを。