今日もいわし、はぐれてます。

海のように広い心で。

今考えること。

今日は一体何文字書くのだろうか。

と思うほど、学ぶことが多かった3日間でした。いろいろ、考えました。

 

金、土、日とありがたいことに多くの、多様な方々とお話する機会がありました。

教員になってから数ヶ月。
大学の時に考えていたこと、学んできたこと。

それらを実践することができてきています。
その振り返りと、新しい展望。そのための道のり。
それらについて考えることができた3日間だったと思います。

実際、大学のゼミで学んできた理論、考え方である『学び合い』。
授業見学にもたくさん行かせていただいて、実践前から蓄積があったと思っています。

それを自分の学級で実践して、やれること、やれないことなど多くのことが見えてきた時期です。

少なくとも、本で書いてあることは実践し、その成果は出つつあると思っています。

学級の雰囲気や人と関わる、助けを求め、助けに行ける。
集団として、育っていく。

そうすると、ある分岐点が訪れ始めてきた、と感じます。
それが、『学び合い』ナチュラルと『学び合い』ミッション。

3月に増田さんの授業実践を見に行かせていただいた時に考えたことです。
詳しくはこちらのブログに。

・『学び合い』ナチュラ

今日、授業を見ていて。
生き方レベルや授業レベル、という話は置いておくとして。
授業で行われている『学び合い』の様式には、二種類のパターンがある、のではないか、と考えました。(本当に、実際はわかりません、私の感覚です。)
そのうちの一つ、名前をつけるとしたら、『学び合い」ナチュラルです。
名前の通り、授業者、生徒がそれぞれ、自然体の状態で授業を行うということです。
自然体、というのは、人間の本能的な、という感じ?です。
授業者も、何かに縛られたり、教材研究などを徹底する、という形ではなく。
その先生が本来持つ雰囲気や話し方、人との接し方をそのまま出す、という感じ。
それによって、子供たちも自然体な姿になって。
関わりたい人と、関わりたい時に、関わる。
したいことをする。
だから、雑談から入っていたのが、少し時間が経つと、学習し始めていく。
『学び合い』ナチュラルの良いところは、やはり両者にストレスがかからない、というところだと思います。
徹底的に、全員達成を目標にすることもない、一人も見捨てず!と強く言われることもない。
ただ、その人間がそう生きているから、それが反映されていく。
だから、授業中の声がけや価値付けなども、発生しない、という状態。
この状態では、集団の構造によって、授業への取り組み方が違うような気もします。
学習に真剣な集団や、人を巻き込んでみんなでやろう!という人がいる集団では、学習に向かう。
逆にそうではない、それらの発話が少ない集団だと、それぞれグループごとの活動になったり、学習は成立しない、という状態になったり。
けれど、これはこれで、子供達同士が話したり、つながっている時間にはなっている。
そんな感覚を、持ちます。

・『学び合い』ミッション

これは、もう一つのスタイルかなと思うものです。
簡単に言えば、集団に対して明確なミッションを与え、それに向かって集団が動いていくような声がけや、構成的な『学び合い』を行う場合です。
授業を通して、身につけさせたい力があったり、強い願いがあったり。
これは、オーソドックスな『学び合い』でもよくあることだと思いますし。
語りだったりがない場合でも、これに含まれることがあると思います。
どちらかというと、従来の教員が考えていることに近い、そんな気もします。

・二つのスタイルについて考える。

ナチュラルとミッションの二つについて考えた時に。違いがどこにあるのか、ということを考えました。
一つは、授業中の教員の行動かな、と思ったりしています。
教員が動き、見取り、伝えていく、授業をしていくというのがミッションスタイル。
教員は一応見ているけれど、生徒たちに全て任せている、というような授業が、ナチュラルスタイル。
もう一つは、授業に対する考え方。
授業において、願いを持ち、子供達にどうなってほしいかを考え、授業を「する」のがミッションスタイル。
授業自体は、自分自身の労働であり、自分自身の生きる術であると捉え、「いる」のがナチュラルスタイル。

こんなことを考えていました。
二つの違いを、「全く違うもの」というのか、重なる部分もあるとも思ったりするので、上手い言語化ができていないわけですが。
自分の中で、感じる違いはあったわけです。

そして、今それについて考えています。
自分は、どのスタイルなんだろう、と。

『学び合い』ナチュラルは、やはり教員は労働の一つとして捉え、自然体で集団に全て任せる、というもの。
ここの前提にあるのは、教科学習の限界、なのだと思います。
教科学習は、所詮学校での物差しであり、別の物差しがある、と考える。
だから、万人に必要とは思わないからこそ、教科学習には限界があって、学級集団全体が納得できるくらいにする、というある種省エネな働き方でもあります。

『学び合い』ミッションは、どちらかというと学校にフィットした形。
学習を重視し、『学び合い』の考え方を用いて子供たちに学習する状態を作る。
社会的に教科の上限はあれど、その上限を押し上げようとする、そんな感じ。

私自身、自分は今『学び合い』ナチュラルの状態だと思うのです。
ですが、正直それだと課題も見えてくる。

社会では、今だに全員が教科の内容がわかることを求めてきます。
そうすると、ナチュラルでいる状態で授業をして、子供達を卒業し送り出す、となった時に。

中学校でもまた学習が求められる。

そう考えると、どうなんだろう、と考えることも。

だから結局私は、両方を目指すのかもしれません。

使い分ける、ということなのか、両方の融合型があるのか、その辺りはわかりませんが。
結局、教科学習の上限をしっていても、社会をわかっていても。
自分の仕事は、教員であり、授業をすることが決まっているわけで。

そこの充実をすることは、悪いことではない。

結局、子供達にどうなって欲しいか、また自分がどう生きたいか。
それが満たされていれば、良いのだと思っています。

本題です。
大学の時に考えていたこと。
教員としてできること、社会人としてできること。

教員としてできることは、幸せになる基盤を持った子供達を送り出す、その環境を作ることでした。

『学び合い』を実践していく中で、つながりや大事なことは伝えることができるようになってきたと思います。
それは、継続していくべきことです。

そこにプラスして、学習について考えています。
どうせ学習・授業を使っているのですから、わかるようになった方が得なはずです。
万人に必要がない、とわかっていても、学習内容が定着していれば今の社会や今の学校で生き残っていく力はつけられるはずです。

そういう点で、自分の授業の改善が必要だなと感じます。
教材研究や自分の分析を少しずつ行っていきたいなと思っています。

具体的には、先日お話ししたようなことからいくつも指針がありました。
とにかく、教員であることを楽しむ、面白くする。

もちろん、学力は上がって欲しいし、課題として感じることではあります。
ですが、それを目的とせず、自分が楽しむことを第一としていけば、結果としてついてくる。

まず、教員生活を楽しむところから始めたいと思います。

社会人として。
直江津の会に参加していると、いろんな職種の方と関わる機会があります。
自分自身が、学校と社会のつながり、橋になるということ。
それらを、休日なり平日の夜なりでいろいろやっていきたいなと思っています。

そういう繋がりは、結局総合学習で生かされたり、子供たちに語る言葉、話したい内容につながります。

自分にとってもメリットが多い。

さて、この二軸を達成するには、体力も、時間も限りがあります。
怠惰に過ごすのではなく、できることを着実にやっていくことが大事ですね。

具体的な策は、いろいろ模索中ではありますが。

教員としての授業作りは、まず自己モニターを始めようと思っています。
ボイスレコーダータブレットがあるのでできるかと。

また、授業時間内での教材研究、プリント作成の時により一段深みがあるものを作ってみたい。

単元の計画もよく練っていきたいなと思っております。

社会人としては、とりあえず自分自身がモデルになるような行動をしっかりとること。
そして、休みの日はやっぱり外に出て、誰かと話す機会を作っていきたいなと思いました。

自分のビジョンを共有して、一緒に考えていきたい。

さて、師の言う幸せから、遠くなっている、気もします。
若さという武器が、別のところで発揮されていきそうです。

ただ、自分の幸せの基準には合っていると思うのですが、ホモサピエンスの本能的に合っているのか、、、

そんなことを悩むと、足踏みしそうなので、とりあえず少しずついろんなことをやっていきます。

いろんな人とお話しできてよかった。
関わってくださった方々、本当にありがとうございました!