先日、直江津『学び合い』の会に参加させていただきました。
場所は、直江津にあるふりーすくーる日晴り。
大学生の時にも、フリースクールなどの学校外での学びの場や居場所を幾つか見学させていただきました。
そんな場所での『学び合い」の会。
職種も多様で、さまざまな方々が集まっていました。
いった時から、「いわしぃ先生だ」と呼んでいただき、ブログなども見ていただけている、と。
嬉しいですね、純粋に。
いろんな関わり、つながりができてきたことを嬉しく感じます。
話題提供は、ふりーすくーる日晴りの代表である、川本さんからでした。
自分の子供の不登校がきっかけで、自分で居場所を作るために始めた、と。
すごい行動力だなと、感じます。
フリースクールの現状についても幾つかお話を伺いました。
帰ってきてから、テレビでふりーすくーる日晴りが取り扱われているものを視聴しました。
今回のお話を聞いて、またその後のフリートークの時間に感じたことをまとめていきます。
まず、特別支援教育。
学校の現状とインクルーシブ教育について。
今の公立学校は非インクルーシブな状態と言えるでしょう。
それは、そもそも教員が足りていないことも要因としてある。
学級の一員であるはずだけれども、気づいたら授業は別々になっている。
同じクラスでできたらいいのに、と本当に思います。
私の授業でも、本人が「ここでやりたい!」と主張した時は、積極的に特支の先生に相談し、一緒に授業をするようにしています。
学級も、それが当たり前のようになっています。
それでいい、本来はそのはずなのですが。
印象に残ったのは、特別支援学校でのお話。
日本にしか特別支援学校はないのですが、その特別支援学校内ではインクルーシブな状態だ、と言います。
それは、互いが互いの状態や障害を理解しあって生活しているから、ということ。
そこから考えると、今の社会や学校は、「分けすぎている」とも言える。
教員としても、「この子は、、、」と感じてしまう。
でも、本来はみんな何かしら特性として持っていて。
社会に出るということは、それらを全てひっくるめて折り合いをつけて行動していくということのはずなのに。
この教員の意識、これが発生する理由について、一人で考えていました。
これはおそらく、学校のカリキュラムの問題、特性だと思います。
一年、一週間、1時間と詰め込まれ、綿密に編み込まれた学習のカリキュラムは、余白がない。
それに合わせるために、教員は必死です。
話を聞いてくれなければ、授業が止まる。
わかってもらえなければ、授業が進めない。
そうすれば、1年間で終わらせなければいけない範囲を終わらせることができない。
その焦り、忙しさから、どうして自分の進め方の邪魔をするのだ?
というふうに、なってしまうのも一つの理由のように思います。
結局、進度を重視しすぎると、わからない人やそもそも話を聞いてくれない人に対していい印象を持てなくなります。
でも、いい印象を持っている必要がある、悪くいってはいけない、と思うからこそ。人間としてそれは倫理的にはダメだ!と思うからこそ。
そこに、何かしらの特性が絡んできていると、それが理由だ、と諦めたり、そのことについてなんとかしようとするのだな、と思います。
簡単に、そしてはっきりと言えば、自分が責められない、決められたものを守るために、邪魔になってしまうものについて悪く思ってしまう、でも何かそれについて納得できる理由が欲しい、と感じているのかもしれません。
分かりませんが。
結局、システムが首を絞めてきているんだろうなぁと感じます。
そうやって、自分に余裕がなくなっていくと。
結局、子供たちの可能性の芽を、気づいた時に摘み取ってしまっているのかもしれません。
結局、今は学校の軸が「学習」にあるわけです。
そこを重視しすぎることで、そこの物差しに合わない子供たちが、少しずつ排斥されていってしまう、ということも悲しいですがあると思います。
あとは、インクルーシブ、という言葉。
インクルーシブの前提になっているのは、マジョリティとマイノリティがいる、ということ。その時点で、どうなの?という話題。
今回の会では、現状の学校問題に対して、特別支援という切り口から話題が進んでいったような気がしますが、私の中では学校システムの問題、カリキュラムの問題についてすごく考えさせられたと思っています。
現場に、余裕・余白がない。
それらは、なにより教員にとっても、子供たちにとっても大事なことのはずなのに。
私自身も、余裕がなくなると思考が狭くなりますし、進めたいのに!と思ってしまうことが出てきたことが正直あります。
自分に常に余裕を持って、広い視野で捉えていけるようにしなければ。