先日、山﨑先生の授業を見学させていただくために、静岡県藤枝中央小学校に授業見学に行かせていただきました。その時の振り返りを。
学年は3年生でした。
<3限目 国語>
3限目の国語の授業から見学させていただきました。
・授業開始前
授業開始の時間になる前から、子供たちは「時間だよー」と声を掛け合い、席に座っている状態に。
この行動を当たり前のようになっていましたが、それは当たり前にできることではない。
普通はなかなか先生が声をかけたり、チャイムが鳴るまで座らない、座っても話し続けているという状態が普通です。
確かに、全員が静かになる、座って待つ、という状態が「本当に」良いかどうかというのは考える必要があります。
ですが、ここで大切だなと思うのは、結局子供達どうして一定のルールがあり、それを互いに守って、チェックしあって行動して言える点です。
また、言われる前に先を読んで行動することができる集団である、というところも良いなと思いました。
これを当たり前にできるクラス。自分も、こういう集団になってほしいなと思います。
・授業の導入
今回は、「もちもちの木」の1限目に当たる部分でした。
まず先生がやったことは何だったか。いきなり読み始めるでもなく。
まず、子供たちに物語が始まる最初のページ(教科書で、単元を行う狙いが書いてあるところ)を各自で読ませ、その後教科書を伏せる。
そして、全体で、この単元では何を学習し、どういう力が身についていれば良いのかを確認しました。
もちろん、これこそ学習指導要領に書かれている身につけさせるべき資質能力であり、それを子供達が文を読んで、書いてあることを口に出します。
そうすると、それってどういうこと?つまり?というファシリテーションを行って、子供たちの発言の深掘りを行う。
そうすることで、子供達の中にこの単元で「自分が」身につけるべき能力、国語の力を認識させるようでした。
これはすごく大切なことだと思っています。
『学び合い』どうこうを抜きにしても、目標と評価を事前に提示しておくのは、学習者の、これからの流れが明確になるので良い。
逆にこれを確認できないと、ただ右から左へ物語が流れていく音読の時間になる。
さらに、各授業ごとではなく、単元でそれを行う意味、ただ教員が書いて提示するだけでなく、学習者が自ら対話することでそれを認識していく。
結局、授業とは誰のためにあるのか、というところをすごく感じました。
こちらが、お膳立てして資質能力を子供たちの前に出すわけではない。
彼ら自身が学び取って、身につけていくものであり、そこにおける目標や現時点での座標を伝えるのが教師の授業における役割でもあるなと実感します。
・先生の役割
またすごいなと思うのは、そういった対話を生徒間、生徒と教師間で繰り広げる中で、先生は基本「問う」だけ。
使っているのは、「問う」「反復」「強調」「要約」くらいでしょうか。
これがすごいのだけれど。
山崎先生の授業を見るのはこれが3回目になりますが。
やっぱり、超ファシリテーション型の授業だな、と思います。
自分が教えるのではなく、教えるような会話を引き出す、問いや回答を引き出すファシリテーター的な役割。
それを、誰一人も見捨てず、の『学び合い』における基本的な考え方で行なっている。
また、単元と単元の関係性、学年のつながりも頭に入っているからこそ、「以前はどうだったっけ?」という問いも立てられる。
学習指導要領を読み込んで、つながりを意識できるのは教材研究の持つ力だと思います。自分にはまだまだ浅い分野。
これから、常時身につけていきたい力だと思っています。
ま、採用前に、学習指導要領と教科書はさらっとつながりを意識して読んでおきたい。
子供達からは、ひっきりなしに発言が出ます。
これもすごい。話したい、みんなに伝えたい、という発言。
先生見て!ではないのもしっかりしている。
自分が分かることが人の役に立つこともわかっている子がいるなぁと感じます。
先ほどの先生の役割についての話ですが。
そもそも流れとして、
「先生の話す内容」▶︎「ある一定の子が理解」▶︎「子供の中で、共通言語に変換されていく」
そういう流れだと思います。
この時、共通言語になりそうな発言をしている子、モヤモヤを抱えている子を見抜いて的確に当てる力がすごいのだと思います。
子供の中で、発言を変換し、より集団にわかりやすい言葉に伝えてくれる翻訳者。
それになり得る子をその授業ごと、時間ごとに見つけ、的確に当てる。
この技術は、一斉指導の技術だと思います。
自分にできるか。。。
それこそ、五感で「見る」がすごく大切なように感じました。
・社会を授業に落とし込むということ
授業の中で、単純に教科の国語の解説をしている場面は少なかったと思います。
どちらかというと、学ぶとはどういうことか、理解するとはどういうことか、というような哲学的な学びが散りばめられているようにも。
例えばこの授業では、「分かる」とはどういうことかを散りばめていました。
それは、教科だけ、点数を取るだけの知識の教授ではなく。
まさに生きる力の教授に近い。
授業を通してどのように日常に生きる力を育むのか。
それを君たちは常に意識できているか、身についているか。
それを含めて、今の学習がどれで、どう向き合えば良いのか。
それを子供達が理解して学習することが、価値がある。
それを繰り返していけば、確かに「何でこれ学習する必要あるの?」の質問が出ることはない。
そもそも、その質問の回答は、学習指導要領にもしっかり書かれている。
教科を学習する、身につける能力の本質がそこにある。
そこをよく把握しておくことが、すごく大事だと改めて気付かされました。
それが分かると、自分が学習する価値もわかるし、その方法も自ずと見えてくる。
授業内では、そんな会話から、予習することについてや、それがわからないからこういう授業でみんなでわかるようになっていくんだよ!という話がありました。
そうやってそれぞれの子供達の学習におけるスタンスが確立されていくのかなと。
「自分の考えを持って、授業をしにくる。それこそ授業の根本の価値」
・音読スタート
音読スタートです。読みたい子を最初に募り、立ってその子たちがまる読み。
ここで読むときにもポイントがありました。
これは何をする時間か。
今回の授業の目的を振り返りました。
今回の授業目的は、登場人物の心情の変化を追うこと。
それに子供達に気づかせ、では何をするか。
鉛筆を持って、線を引きながら読むこと。
どうしたら学びになるのか、何にフォーカスして読むべきか。
それを少しずつ、子供たちの中に染み込ませていっているように思いました。
当たり前だけれど、目的、目標があって、手段がある。
そこを何度も何度も理解して、最適な手段を取れるように育てていく。
たとえ最適じゃなくても、人の力を借りたりしながら、最終的に目標を達成するために。
それは、たくさん練習する中で解っていくこと、知らないうちにできるようになっていたことだと思います。
その環境を作れるように。自分もしたい。
音読をしていて面白いなと思ったのは、子供たちの顔が上がらなかったところです。
普通、友達が噛んだり、間違えたりゆっくりだと、集中が途切れて顔を上げる子供がいてもおかしくない。
でも、ほとんどがやるべきことを認識しているから、ペンを持って必死に探しながら読んでいる。
必要性は、ちゃんと伝わるのだなと思います。
・授業を見ながら考えること
『学び合い』を、やりたいなと思っています。それは、子供達につながりを作ってほしいと願うからです。そのための方法として、確かに「はいどうぞ」の形は適している。
私の主軸は、一人一人が学習を成立させる、というところにはない。万人に必要ではないと思うから。
でも、今の社会はそうではない。まだそうなりきれていない。学力も、学習も求められる。
つまり、自分がつながりを!と思ってやっていた授業だったとして。
もし卒業させたその先で、学習にこけてしまったら。
つながりをどんなに作っても、今の学校には自己肯定感を下げる要因がある。
まだ学校は、教科の学習を求めている。
そうすると、繋がりはすごく大事だけれど。
学ぶこと、考えることへの価値付けも、怠ってはいけないと心底思います。
それも結局、子供達の幸せにつながるからです。
・3限授業の振り返り
主に上記したような内容でした。細かく見れば、まだまだいろんな発話はあったし、国語の授業展開としてどんな感じだったのか、というのも書けてない部分もあります。
総じて感じるのは、油断できない、緊張感がある授業。
これは、以前見学させていただいたときにも話にあったこと。
スピード、テンポがはやい。
でも、子供達の生きていく社会は、それくらいのスピードが常時求められる。
そして、それをトレーニングできるのは今しかない。
だからこそ、失敗できる今の環境でやってみる。
確か、そういう意図だったと思います。
今回も、よくそれが伝わる授業でした。
<4限目 理科 団体戦>
・授業開始前
子供達は、結構先生のところに来てお話ししています。
『学び合い』実践者の中でも、ゼミ生でも悩むポイントである、教師と子供の距離感。
「教えてはいけない」「贔屓はダメだ」
これをどう解釈するか。
今回の見学で、このあたりが結構腑に落ちました。
それは最後の対話でわかるので、そこで解説します。
ここでのポイントは、「子供」ではなく「子供達」が来ていた、というところかなと。
・授業開始
今回は、2クラス合同で団体戦です。
団体戦とは簡単に言えば、ノートや教科書は見てはいけない、でも友達と話しても良いテスト。
協力して、全員が満点を取ることを目標にするテストです。
授業前の時間には、語りがありました。
この授業では何を大事にするのか。
これも、先ほどの授業と同様に子供たちの中に落とし込むために、子供たちが対話を広げるようにします。
この団体戦の価値とは、
・自分で本番のテストで100点を取るために
・本当にみんなでやっているか、協力する力が身についているのかをテストする。
さて、語りが終わったら、プリントを配布して開始になりました。
2クラス合同といっても、語り後は各クラスに戻って、それぞれが行動をしています。
これは、はいどうぞの『学び合い』に近い。
面白かったのは、ここからでした。
・団体戦における子供たちの動きについて
各学級において、動き方に大きな違いが生まれていました。
1組では、最初から机をくっつけて、班の形になって学習がスタートしていました。班メンバーも仲が良いみたいで、最初は班の中で協力して学習をしている様子が見られました。
班内でも、最初から話し合う人もいれば、机はくっつけても話さずに一人で解いて、時々人に聞く、といったふうにやっている子も。
それに対して、2組は、まず誰も動かず、ほとんどの子供が一人で学習を始めていました。
始めに、個人で学習する子が多いクラスでは、まず自分の力で考えてみよう、という気持ちは伝わります。ただ、なかなか人にわからないとすぐに聞きに行ける状態ではないのも事実。
学級の雰囲気や、今までやった回数などによっても左右されるところだと思います。
開始後五分くらいすると、両クラスで大きく動く子供が出始めます。
終わった子やわからなくていっぱいになった子は、動き始めて着火剤の役割をします。
・でてきた違い
5〜10分の経過のタイミングで、
1組の子達は8割から9割の内容が書き終わっているのに対して
2組の子達は7割くらいの内容が終わっている状態でした。
これはやはり、最初からわからないところを共有して、一緒に考える過程を早くとっていたからこそ生まれた差かなと思います。
大まかな学級の学びの違いとして、
1組は一気にやりきって、みんなで同時に進めていくような感じ。
2組は、一つ一つ理解して、聞きながら進めるという感じ。
全員でガーッと進める1組に対して、2組は個人での学習スピードを大切にしている感覚がありました。
・テスト時間終了間際
最後の方では、お互いのプリントを見せ合いながら、答えが同じかどうか確認し合う工程に入っていました。
また、学級内では、大きな声を出して動いて、チェックして回る子や教える子も増えて。
その学級の動き方や教え方、協働の形は全然違うので、面白かったです。
また、何が理由でそういう違いが出てくるのかというところは非常に気になりました。
・テスト終了
終了後は、別の学級に集まって、二クラス同時に丸つけです。
子供たちが移動する時。最後の子供達の顔を見ていました。
自信満々に、やりきった、という顔なのか。
名残惜しく、悲しい雰囲気なのか。
そういうところで見えてくる、学習の理解度やつながりもありました。
・間違えた子の批判
この授業の目標は、全員が100点を取ることです。
故に、丸つけ中に間違えてしまった子は、子供達からの批判の対象になりかけることがあります。
事実、はいどうぞの『学び合い』でもあることだと思います。
〇〇が遅いから、わからないから。できなかったから。。。
そこで、その責任をどこに落とすかがすごく大切。
それこそ、「集団」の責任であるということ。
相手ができないこと、わからないということを、自分ごととして認識しているかどうか。自分が終わって終わりではないということ。
これを、『学び合い』を実践する側がどれだけ認識しているかどうか。
これって、子供達に求めることは結構簡単だと思います。
特に本を読んだりしていれば、個人ではなく集団の責任であることはよくわかる。
問題は、本当に教師自身にそこが落ちているかどうか。
集団を、自分ごととして捉えているかどうか。
これは、対子供集団だけでなく、対教師集団、対人集団全てに言えることだと思います。
自分が終わってそれで終わりか。
人の手伝い、コミュニケーションはどれくらいとっているか。
自分の幸せを持った上で、他の人の幸せに対してどれだけ一人も見捨てないができているか。
そういう自覚を、どれだけ持てるかということ、教師自身が実践できているかということ。
これは、子供はすぐ見抜くなと思います。
子供に、誰一人も見捨てず!終わった後もできることを考えて!と言いながら。
自分がそうしていなかったら。
長い時間共に過ごすからこそ、簡単に見えてくる人柄、本質。
それが出た時に、自分が語り伝える内容と不一致な状態にはしたくないですね。
<給食の時間から考えること>
給食も子供達と一緒にとらせていただきました。
改めて、自分って教師向いてないよなぁと、こういうところで感じてしまいます。
学生時代は食べるのも早く、早く体育館に行って遊びたい!と思う子供でした。高校も。
だから、早くご飯を食べるということはできました。
ただ、大学生になって、ゆったり、美味しく食べたいなと思う気持ちが出てきて。
しかし、小学校の先生にその余裕はなかなかない。
配膳の準備、盛り付けが終わった後でも、減らす・増やすなどがあり。
食べる時間も少なくなってしまう。
こういう、端端にあるよくわからない制限が、苦手でした。
今から考えれば、社会のルールとはあまり合っていない。
社会は、1時間のランチタイムがあることも多い。
忙しい時は違うけれど。
なぜなら、そのランチタイム自体が息抜きで、コミュニケーションの場になったりもするから。
給食も、そういう場として提供してあげたいなと思うのですが。。。
これはもう少し計画を練る必要があるなと思います。
<5限 算数>
・式の本質
言葉で式を作る授業。(払ったお金)ー(本の値段)=お釣り
になるという式を作るという問題。
そこから、実際に問題に書いてあるお金を当てはめて考えていく。
□を使った考え方がで始めるタイミングです。
ここで考えるのは、小学校の高学年になった時に出てくる、文字の考え方。
そして、中学数学の、文字式、代入、方程式に大きく関わってくる範囲であるということです。
子供達の中には、さらっと□の位置とわかっているお金の位置を当てる子もいます。
しかし、理由を聞けば、大きい値段ー小さい値段だから、ということ。
確かに、小学校低学年では、引き算を習うときに大きい方から小さい方を引くという癖がつきます。そこから、勝手に引き算の時には大きい方から小さい方を引くと判断します。
しかし、実際これからを考えると、マイナスの考え方が出てくる。
そうすると、単純に、数の大小で式を立てることは難しくなります。
だからこそ、この式が何を表しているのかを明確にし、理解する必要があります。
そこが、なかなか難しい。
実際、中学生、高校生ですら、今自分が何の式を立てているのかわからない状態で問題を解いている子達もいます。
そうすると、公式の暗記、写しになってしまって、テストなどの場面で何をやっているのかわからなくなる、ただ暗記の学習で終わってしまいます。
そういう点で、式の本質を伝える授業だったと思います。
・子供の有能さ
授業では、良い発言をしてくれる子がいます。この「良い」について少し考えてみました。
先生が、子供たちに理解させたいと思っていること。
そして、子供たちが理解できること。
その中間にある言葉を発する子たち、その発言が「良い発言」だと思っています。
ま、シミュレーションのように授業がうまくいくというところが、本当に良いかどうかはさておいて。
そういう子供達は、有能であり、そこを引っ張り出すのが、一斉指導型での教員の役割であるなと思います。
・先生の役割について考える
学習指導要領で書かれている、身につけさせるべき資質能力という視点で見ても、どこまでも社会と授業は繋がっていなければいけない。
そして、そこにおける教師の役割は、学校と社会をつなげるコネクタ。
授業レベルの『学び合い』では、この部分において、「人格の完成」を例に、人の力を借り、自分の課題を解決する力、つながる力、生きる力を育むための最善の方法として、教師が一斉に教える形ではなく、子供達が学び合う形の『学び合い』の方法が良い、としている。
これもまた、『考え方』が重要で合って、それに適したのが「はいどうぞ」の形だと本で言っているが、『考え方』が抜けていたりすればうまくいかず。
逆に、『考え方』がはっきり落ちていれば、一斉指導型でも良いのだと思う。
ま、一斉指導型だと「全員を」が難しい、というのはよくわかる。
では生き方レベルではどうか。
これもおそらく、「コネクタ」という働きで変わりはない。
学習で身につけさせるべき資質能力をしっかり身につけ、幸せに生きていくことを保証しようとする授業レベルに対して。
それを包含するように、生き方レベルはあると思っていて。
それは、教員自身が幸せに生きること、その手段を伝えることで、子供達が幸せに生きていくための方法を考え、実践していくようにさせる。
学校と社会をつなげるコネクタという役割は変わらないとして。
授業レベルでは、授業の内容、教科の内容を通して学校と社会をつなげる。
生き方レベルでは、教師の生き方を通して、学校と社会をつなげる。
うまく言葉にまとまっていないが、そんなイメージ。
学校で学ぶことと、社会をつなげる役割として教師がいるとして、その手法が教科の学習か自分の生き方を伝えることかの違いかと。
そして、これは両立するとも思っている。
だから、授業「レベル」、生き方「レベル」というように、レベルと言っているから上下があるような気もするが、そうではなく。それらは両立できるし、私は包含関係だと思っている。これは後で記述する。
・『学び合い』での疑問
オーソドックスの形での、『学び合い』では、一人一人の学習の成立というのは、難しいのかもしれない。
これは、どのレベルを学習の成立とするかにもよるかもしれないけれど。
たとえ課題が全員達成(マグネット式ならマグネットが全員動いた)になっていたとしても、理解できていないかもしれない。上部だけかもしれない。
でも、そこに生まれた子供たち同士の関係性を大切にし重視するのか。
それとも、一人一人の深い学習を望むのか。
それは、先生の願いによるものだと思う。
私の考えは、子供同士が繋がっていくこと、つながる価値を知っていることが、最終的に幸せの基盤になるのではないかと思うので。そこを重視したい。
あとは、学習の成立は、本当に、誰にでも必要なのか?と思う部分もあるからだ。
たとえ学習指導要領に書かれている力を身につけられなかったとしても、その人の力を借りることができれば良いのではないか、とも。
まぁ、学習指導要領は法的拘束力を持つわけだから、見についていないといけないのだけれど。
一人も見捨てない、とはどういう状態なのか。
それは、学習面の話か、関係面の話か。
そこを、教員がよく理解して考えて、願って、イメージできなくてはいけないと思う。
<授業後対話>
・「教師が教えない」ではなく、「教師の前に頼るべき人がいる」という状態。
『学び合い』の本などでも、教師は教えない、という語りだったりなどの内容が見られると思います。
大切なのは、文面通り「教師が教えない」ことではないと思っています。
大切なのは、教師よりも先に、仲間に頼る集団を作ること。
教師が教えないのではなく、教える必要がない、むしろ教えるよりも仲間でやったほうが効果があるから、一歩引いている。
教師が教えないから、教え合ってね、ではなく。
教え合うことに価値があるから、教師は結果的にも教える必要がなく、その分の時間は教え合う時間にしたほうがいいよね、ということ。
だから、山崎先生の授業、学級経営では、先生にまずこない。
それは、
まず、教科書。
次にネット。
そして友達。
兄弟。
そして先生。
最初はまず、自分で考えてみて。
わからなかったら、人に頼るように。
そういう順序を、浸透させていくこと。
そうすることで、まず自分で考える文化ができる。
それは、自分で考え、時に人の力を借りて、「自分の」課題を解決するに至る。
どこに価値を置くのか。
形や方法か。それとも。。。
自分が話す内容、やっていることが、何に重点を置いているのか、よく考えて行動する必要があるなと思います。
・『学び合い』における子どもとの距離感。
上記の話に関わりますが。
『学び合い』における子どもとの距離感。
全員にできないことはしない。
聞かれても、教えない。
文面通りとると、そうなりますが。
ここで大事になるのが、「子供たちからの信用」です。
それは、何か個人的に話したり、教師と生徒間での信用というよりも。
教師に対する、子供集団からの信用です。
信用がなければ、自分が語っている価値も意味も、何も伝わりません。
結局、上位2割が、教師自身を信用せず、暴走します。
それは、腹を見せても良い状態に、教師がなっている必要があるということでもあります。
ここで、ゼミ生が結構誤解しやすいポイントかなと思うところを記述したい。
よくゼミでは、西川先生と個人でつながったり、お願いしたりすることはほとんどないと思います。
集団の総意として、関わることはあります。
でも、先生自身も、特定の個人とつながったり、贔屓することはありません。
一緒に遊んだりすることもない。
じゃあ、そこに信用はないのかと言ったら、そうではない。
そもそも、問答はその人の回答に信用があるから問うのであって。
だから、西川先生のことを、我々は信用しているのです。
それはそうです。
特に我々ゼミ生は、ゼミを選ぶ時にある程度どういうゼミで、どういう先生なのかを理解して、他のゼミと吟味した上でこのゼミを選んでいる。
無条件で、入った時からある程度の信用があるのです。
しかし、それを履き違えた状態で、初めての学級で同じようにやるとうまくいかない。
なぜなら、子供たちはその先生を選んできたわけではない。
信用の基盤も、何もない状態で、
私は教えない、個人とは関わらない、と言ってしまえば、なんだ??信じていいのか??となる。
信用がないから、語りも響かない。子供達も、価値を見出さない。
だから実は、「信用を得る」は、大事なことなんだなと思います。
でも、これはある特定の子から、ではなく。「子供集団」からというのが大事。
それは結局。
自分の言っていることと、やっていることが一致している、言動一致が大事だと思います。
誠実に生き、自分の生き方を、偽りなく語る。
きっと、何か失敗した時。それこそ『学び合い』とかでうまくいかなかった時。
腹を割って、話す。謝る。
それによって、学級の動きが変化するのは。
そこに、教師への信用が少しでも取り戻されたからだと思うのです。
だから、『学び合い』の授業も。
教えられないから教えない。のではなく。
できるけれど、「あえて」やらない。そのほうが、子供達のためになると「本気」で思っていること。
それがとても大事だと思います。
また、その点でこそ「問答」はすごくうまく働く。
言動一致しているかどうかの評価基準が、子供の中でもどんどん増えるからです。
それを達成していれば、信用が増える。
信用の大切さ。これを知っておいて良かったと思います。
今まで見学した『学び合い』実践者の方々に共通していたことだと思います。
最近の、藤田さん、宮島さんの授業では。
子供達から直接聞くことができた話があります。
先生は、教えるのが上手い。例の出し方だったり、、、
子供たちは、先生の教える技術をしっかり認知していました。
でも、それでも教える方法を取ることは少ない。
それをしっかり理解していた。
だから、成功しているんだなと思います。
そういう点で、一斉指導するかしないかは置いておいて。
「できて損はない。」に尽きると思いました。
・授業レベルと生き方レベルを深掘りする。
以前の群馬の帰りで、生き方レベルとは、教師自身が幸せに生き、それを伝えていっているかどうかではないか、という話をしました。
そして、授業レベルや生き方レベルという、「レベル」と言っているが、そこには上下もなく。
私は、包含関係だと思っています。
だって、我々教師が生きていく上で、授業をしなくては食っていけない。
教師である以上、授業は離せないもの。
そこで、一番効率よく、子供達に幸せを伝え、実践できる方法が、はいどうぞ、の形の授業レベルの『学び合い』である。
逆にそこがうまくいってないと、生きていても意外とストレスがあったり幸せじゃなかったりする。
だから、授業も、しっかりやるし、生き方も、しっかりやる。
山崎さんの、生き方レベルの意見も伺って。
総じて、子供達に、「生き方、生きる力」を身につけていってほしいんだなと。
それを、学校を通して、本当に実現しようとして、願っているのだなと思いました。
結局、みんな、自分も幸せに生きたい。
相手にも、幸せに生きてほしい。
それらは、ぶつかるものではなく、むしろ良い循環を生み出してくれる。
それが子供集団と教師集団なら、問題ごとが減れば、残業が減る、なんていうのも、まさにそれ。
両者の幸せが、より深くつながっているのだと思います。
<まとめ>
今回の授業見学では、改めて公立学校、授業だからこそ伝えていける生きる力についてよく考えることができたなと思っています。
特に、教員の役割についても。
「授業レベル」と「生き方レベル」の関係性。
何より、『学び合い』における子供たちとの距離感。
「信用」の大切さ。
そのあたりを、深く学ぶことができたと思います。
次なる私の課題は。
具体的な学級像として、
「教師がいなくても自立した集団になること」
そして、最終的に社会が
「誰一人も見捨てない、みんなに誰かと繋がりが保障された社会」
を作っていくこと。
その学級像の具体を、よりリアルにイメージしつつ。
そこに自分の授業をどう結びつけていくのか。
どう物事を価値付けていくのか。
そのあたりを、また考えていきたいと思いました。
山﨑先生をはじめ、藤枝中央小学校の皆様、ありがとうございました!