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海のように広い心で。

2025/1/31 宮島さん授業見学

西川研究室OGである宮島さんの授業見学に行った記録です。

分割でブログに投稿していたものをまとめました。

イッキ見したい方、自分の振り返りように全てを一つの記事にまとめました。

よろしければ!

 

先日,西川研究室OGである宮島さんの授業を見学させていただくために、上田千曲高等学校に授業見学に行かせていただきました。

直近のゼミ修了生の方の授業です。

合同『学び合い』も設定してくださったり、子供達が実際に生きる知恵を授業で学ことができていたりなど、私自身も学べることが非常に多かった授業見学でした。

 

教科が「公共」ということもあって、子供たちが実際に生きていくための力になる教科です。

『学び合い』の授業は、そもそも繋がることが特であることを見出せる授業です。

人と求人票を見合って、働く時を想像しながら話を進める彼らは素敵でした。

 

そこに見学に来られている先生方もいて。

そういった方々、『学び合い』を同僚がやっているのを直に見て、どう感じるのかというのを聞けたのも良かった。

 

同じ単元でも、学級によって見せる色は違う。

でも実は、その違いって先生が作っていたりするんだなと思いました。

先生の笑顔は無意識の肯定になる。

先生の気持ちは、2割には伝わる。

 

合同『学び合い』も見せていただいて。

 

んー、色々考えることがたくさんでした。

宮島さんと個人で話す中で学んだこともたくさんあります。

いずれ自分が対面するであろう壁のことも。

 

とにかく、最近いろんな見学、対話、卒論によって、生き方レベルの『学び合い』の全体像が見えてきたように思います。

後はそれをどう実践するか。

その辺も考えて行けたら良いなと思います。

 

<授業見学の構成>

学校は本当に様々な学科がある学校で、工学や生活、福祉、ビジネス建築などなど。

そういった学級で、授業科目は「公共」

学年は1年生。

4限と5限は一学級で6限は学科合同で行いました。

 

〜4限〜

<学級の雰囲気>

最初の学級は、全体的にとても賑やかな雰囲気でした。

休み時間からわちゃわちゃしている感じで。

やっぱり、昼休みも『学び合い』も、わちゃわちゃしている方が好きなのか、とても楽しい。

わちゃゼミっていう名前、ピッタリあっていたんだなと思います。

 

宮島さん自身は適度な距離感を持って、生徒と話している。

 

生徒は、男性生徒が9.5割くらいの学級でした。だからより仲が良いのかも。

 

授業は、30分ほど『学び合い』でプリントを使って学習し、残り時間は生徒を当てて発表させるなど一斉指導の形式も少し織り込んでいたり。

 

内容が、ワークライフバランスのことなので、プリントもそれに関する問いだったり、実際働くということを意識させるために、求人票などをプリントにして配布していました。

 

最初の語りは1分以内で、プリントの説明や時間の説明などで終わらせ、すぐ『学び合い』に移りました。

 

もう何度もすでにやっているからこそ、子供達もよくわかっている様子。

子供達からも、「いつも通りやっちゃおう!」という言葉がいろんなところから出ているのが素敵でした。

 

最初は、一人でやる人が7割、協力して机を動かしたりしてやっている人が3割ほどでした。

 

いきなり人に頼るだけでなく、自分でまず頑張って、できなければ人の力を借りる。

そういう、『学び合い』において一番大切な力が身についているなと思います。

 

スマホの使用について>

基本的には学校では指定された時間以外はスマホの使用は禁止されてい流ようですが、宮島さんの授業ではスマホ使用やタブレットなどの使用を許可することで、調べ学習などしやすい空気感につなげているようでした。

 

子供達も、意外とゲームなどではなくてしっかり調べることに活用している様子が見られました。

 

最初は雑談が見られたグループも、誰かが学習に集中し始めることで少しずつ全体的に学習する雰囲気になっていました。

そういうところから、私語はエンジンがけのコミュニケーションであり、そこから少しずつ学習に向かっていく、そういう流れが見て取れました。

 

しかし、基本は教科書を使って穴埋め問題や調べ学習をしていました。

 

授業の最初には、すごいスピードで穴埋め問題を終えて自分で考える課題に移行している人もいました。

 

求人票を友人と見比べながら、こういうところを見たいよね、見る必要があるよね、大事だよね、というような会話が自然に生まれていて。

まさにこれこそ、生きる力だなと思います。

 

自分一人でももしかしたら気づいたのかもしれません。

しかし、それを人と意見をすり合わせることで、何を見るのか、他者は何を見ているのか。

他者の意見から得られるものは何で、どのように自分の人生を幸福にするのかを人と関わることで得ることができるのが素晴らしいところだなと思いました。

 

<ICTの活用について>

スマホタブレット、パソコンなどを活用していて。

面白いのは、個人でICTを活用するのではなく、誰か一人が(特に机に座っている一人)が画面を開いて、他のメンバーはその机を囲ってみんなで見合うような形になっているところです。

 

そういったところにも、誰が検索力があるのか、扱いに長けているのか、というものをお互い把握しあっているような感じがしました。

 

逆に、スマホの使用だとこちらから非常に看取るのが難しくなる。

以前タブレットをたてて一人で活動している人がいました。

そういった子を見とるのは、結構難しい。

 

どのように活動に参加しているのか。どう仲間と繋がっていくのか。

私の感覚では、うまく行っている集団は、タブレットなどを覗き込んだり、見えるように平らなところに立てずにおく。

 

それは自分の調べていることを開示できる集団であるからということもあると思います。

スマホのフィルムを覗き見防止できるものがあるように、プライバシーを考えることはあります。

でもそれは赤の他人から見られたくないのであって。

 

学級内の集団から見られても良い、と思っているかどうかはそういったところからもみとれるのかもしれませんね。

 

集団として良い状態なのは、ただ人やる、ただ人の回答を写す、ということだけでなく。

 

まず一人で自分の力で取り組んでみて。

分からなかったら聞く。わからなそうな雰囲気があったら教えたり声をかけにいく。

そういう関係を結べていることだと思います。

 

社会に出た時、人の力ばかり頼れるわけではない。

だから、『学び合い』では自分でまず挑戦し、「人の力を借りて」「自分の課題を」達成する。

 

そこが肝心なところだと思います。

特に「自分の課題を」というところ。そして「人の力を借りて」です。

あくまで自分の課題は自分で解決するもの。

そこに人の力は借りるけれど、人にやってもらうのではない、ということでしょう。

 

 

今回の授業見学では、その辺のことをよくわかっている子供達だったように思います。

 

だからこそ、授業では、いきなり机を合わせ始めるのではなく、7割くらいがまず個人でプリントを見たり、進めたりして自分のできるレベルを図り。

そこから人とやるか判断し、動き始める。

 

なので、授業中盤くらいから、ある程度目を通して自分と課題のレベルをわかった子供達が、動き始めていくのをみました。

 

スマホの規定>

今回の授業では、スマホを使って調べている子もいました。

学校自体は、許可がないければ授業中のスマホ使用は禁止。

 

でも、禁止されていてもやる子はやるのを知っています。

うまく先生の目を抜けてやる。むしろそれを楽しむ。

 

だったら、解放してやらせる、スマホがあくまでもツールであることを学ぶ場として活用するのは良いなと思います。

 

塾をやっていても、子供達がわからない問題にあった時。

一番頼りになるツール、いつも手放さないツールがあるのに、それを活用していない姿が見られます。

 

スマホは、学習において集中力を乱すかもしれません。

でも、うまく付き合って、使いこなすことができれば最強です。

それは今の人工知能なども同じ。味方にすることが大事。

 

こういう授業でこそ、学習に生きるのだ、ということを知るチャンスだと思いました。

 

<先生の役割>

宮島さんは、授業中事務的なことをやった後は、ぼーっと集団を見ていました。

他の見学に行ったところの方もそうです。西川先生もです。

 

面白いのは、うまく行っている集団の時は。

「特定の個人」を見ているわけでもなく。「でも全く見ていない」でもない。

「集団」を見ているというのがポイントだと思います。

 

だから、個ではなく、適切に集団を評価できる。集団のレベルを測れる。

見ているから、気づける。子供は教師にフィードバックしている。

 

そういう点で、やはり「見る」ということの大切さ、その対象は大事だなと。

 

後は、はいどうぞ!の『学び合い』が成立するための子供達の考え方として、

「自習の方が自分たちが好きに学べる、より進む、わかりやすい」と思う状態になるかというのは大事だと思いました。

 

自習はうるさくて好きじゃなかったり。自分でやってもわからないから面白くないと思っている集団では、うまくいかない。

 

逆に、自習が好き(サボれるという理由以外で?)という状態であれば、はいどうぞはフィットするなというふうに思います。

 

そう考えると、そんな集団で、「教える」ことしかできない教員は、逆に子供達からすれば必要がない。

 

だから、「生き方の例」を提示できるように、自分が幸せになること。

そこでのみ、有機的につながった集団においての教員の価値が出るのではないか、なんて考えました。

 

公共の授業なので、グループで労働についての話に。

福利厚生の部分や賃金など、それぞれが見るポイントが違うのは当たり前として、それがグループ内で共有されているのが良かったです。

そういう会話から、「どう働きたいか?」「働く時に大事にしたいことは何か?」

という内容の会話が聞こえてきて。

 

これこそ、生きるための知恵、社会につながる学びであるなと実感しました。

 

これが更に「働くこと」とはどういうことか、という視点を持ち始めると、自己の幸せについて結びつけて考えたり、そもそも職業や、どの大学ではなく。

 

「自分はどう幸せに生きるのか」「自分にとって何が幸せなのか」というところに変化していったら良いなと思います。

 

それはきっと、教員がまず自分の幸せについてある程度確立していて。

それを発信していることも必要なのかも。

 

それは自分に定まっていないものでも、他者はこんな人がいるよーって言えるのも強い。

つまり、ロールモデルをたくさん持っている教師は、その辺を語って広めることができるなって思います。

 

自分の幸せも、人の幸せも。

人と繋がるから見えてくるものがある。

 

それを伝えることができるようにもなる。

 

人と繋がって、対話すること。

その人が人生で何を大事にしているのか聞いてみることは、面白いし、学びになります。

 

 

少し気になったこととして、生徒たちと目が合わなかったことです。

例えば、一斉指導の学級に入れば絶対みんなこっちをみる。

『学び合い』学級でも、みられることがある。

 

逆に、瀬戸ツクルスクールや、フリースクール

そして『学び合い』として集団が有機的になっている学級では。

 

子供達は、自分らの方を見ないなと思うのです。

 

それは一つに横を見ている。

同僚の関係で、今力を借りるべき人間が誰かわかっているから。

もう一つは、活動自体に集中しているから。

 

授業中、あきるの時計を見たり、人の顔を見たくなります。

新しく教室に入ってきた人は、まさにイレギュラーの始まりです。

自分の退屈さを紛らわせてくれるのではないかと見てしまいます。

 

でも、集団は、内側に視線がいく。心が向いている。

 

そういうところも、集団を測る一つの基準なのかもしれないなと感じました。

 

ま、見る人は見るので、そういう人もいていいし。

そうじゃないと防犯上危ないですからね。。。

 

授業中に、一人でずっとやっている子に話を聞きました。

ま、そもそもその子はその授業内容のことはやっていなかったのですが。

 

「内容、ひとつもやってないけどいいの?」

 

「いいんすよ。今一番ヤバいのは漢字なので。」

 

「でも、くじで引いて発表があるかもしれないんだよね?」

 

「そうしたら、教えてもらいます。」

 

確かに、その授業中にその子はその学習内容を理解していなかったかもしれない。

実は問題に目を通していたし、周りの話は聞こえていたのですが。

ぱっと見は何もしていない。

 

でも聞けば、誰に聞けば良いのか、授業の雰囲気、クラスの点数などを自慢してくれました。

 

「教えてもらわなくても不安じゃない?」

 

「教えてもらわなくても、この授業赤点ほとんどいないんだよね。俺以外笑、それに宮島先生が教えてくれるのもわかりやすいよ。例とか。」

 

授業の形態にも、先生自身が教える時にも納得がいっているようでした。

結局、確かに学習はその子には成立していなかったかもしれない。

でも、その子は誰に頼ればいいのか、人の力を借りることが得であると言うことをよく知っていた。

 

学習したことは、大人になって直接使えるものは多くないかもしれない。

学ことをどう生かすか、思考の流れだったりは大事だ。

その部分がきっと学習指導要領で定められている、身につけさせる資質能力の部分であるはず。

 

それだけでなくて。

その子が、人の力を借りる、人に力を貸す。

その関係が自分が幸せになるために必要であること、得であること。

それが腑に落ちているのであれば、生きていく力は身についているように思いました。

 

自分は。

確かに、教員として学習が一人一人に身についてほしいなと言う気持ちもあります。

人と人がつながってほしいとも。

 

でも、私の願いは、やっぱり子供達が幸せに生涯生きてほしいと言うのが大きな願いです。

そして、学校でそれを願うなら、学級に対しては、先生がいなくても自立した集団になることを願います。

 

それを、教科を使ってです。

私は、必ずしも万人に教科学習がいる、とは思えません。

 

だから、それがその時間にできなくても。

その子自身が自分の幸せにつながるための何かを身につけて、感じてくれたら良いなと言う授業がしたい。

 

生きるために大事なことが、腑においている子供達を見て、より強くそう感じました。

 

宮島さんの授業には、他の先生方も来られていたので、その方のお話も聞いてみて。

 

今でこそ、『学び合い』の授業を見たりしているので、慣れてきたり、それが当たり前に感じてしまいますが。

 

初めて見る方がどう感じるのか、と言うのはなかなか聞いたことがなかったので、とても新鮮でした。

 

やはり、多くの教員の方々は、一人で学習している子供たちに目が向いてしまう。

 

この形態をしていたら、一人の子が目立ってかわいそうである、と。

この空気感が好きではない子もいる、と。

 

確かに、そう感じるかもしれません。

健全な集団でなければ、それは問題です。

 

でも、一人で学習している子供たちの話を聞くと、意外とそう感じていない。

一人で集中したい、自分でこれを解決したい。

必要があったら、人を頼れる。

 

じゃあ。一斉指導の形だったら、孤立しないのか。

確かに、表面的には孤立しているようには見えないかもしれません。

 

でも、それはどうなのか。

 

ゼミの師もよく言いますが。

『学び合い』は、良くも悪くも学級の集団の本当の姿が出る。

 

現実を受け入れて、そこからがどうしなければいけないのか。

 

結局、表面化させないだけであって、その後にうまくいくことはない。

 

何より、それは一人でやるのが寂しい、つらいと言う一つの価値観でしかない。

 

自分は特に、一人でやりたいタイプだったし。

先に終わらせて、人に教えたりするのが好きだった。

 

だから、一人でやっている時間も必要だった。

 

そもそも、学びを本当に整理するなら、一人で考える時間もいるはず。

 

そう言う点で、全員がむしろたくさん動いている方がどうなんだろうか、と悩ましい。

 

結局、授業の見取りも、自分の中にあるもの、経験から基づく思考しか基本的にはできない。

だから、色んな思考、見方を増やすためにも、人と対話して、見て、経験するしかない。

 

そうやって、学級の姿が表面化してきた時にこそ、

何が大事かを語れる、見とれる自分でありたいなぁと思います。

 

次の時間は、別のクラスで授業でした。

内容は、前の学級で行われたものと同じもの。

 

ですが、やはり学級の雰囲気、『学び合い』中の動きは全然違う。

 

それがその学級の味というべきか、教員自身の腹の内が出ているのかはわかりませんが。

 

先ほどの学級よりも女子の人数は多いのですが、ほとんどが最初から個人で学習していて。

授業時間の最後の方では、ゆったりと仲の良い子のところに行くのですが。

それでも、2人。3人でやっている人たちはいたかなぁ、?というくらい。

 

男子は結構まとまっているんですが。

先ほどの学級では、大人数の大型班ができていったのに対して。

 

こちらの学級は終始グループが崩れず、少人数班がたくさんある印象でした。

 

交流が少ないと思って声をかけるべきか、でも交流してほしいというのはこちら側の意図であって。

結局、その子達自身に人と繋がる価値が腑に落ちていなければうまくは回らない。

 

そこをどう価値づけて、語っていくのかはすごく大事なように感じました。

 

 

あとは、やっぱり学級の雰囲気は、教員の雰囲気でもある。

自分が『学び合い』をした時もそうでした。

 

自分が楽しくって、盛り上がっていると子供達もそうなるし。

 

自分が逆に風邪をひいてしまって、静かな時は静かに動いていました。

 

それはまだ集団ができていないからかもしれませんが。

 

それでも、教員の、集団の管理者の雰囲気は伝わるものだと思っています。特に2割。

 

そういう点で、自分が幸せである、その物事に価値を感じている、楽しい、と感じながらやることは、一斉指導だろうが『学び合い』だろうが大切なんだろうなと思います。

 

 

素敵な姿もたくさんありました。

例えば、なんだかんだ最初は私語をしていたグループも、気づけば学習の内容に行っている。

グループ内の私語はエンジンをかけている時なのかもしれません。

一緒にこれをやるぞ、一旦みんなの雰囲気を明るくしよう、的な。

 

だから、良い集団は、私語と学習を織り交ぜながらうまくやっている。

 

あとは。足を怪我して動けない子に近づいて教えている姿がありました。

最初、そのこの状態に気づけなかったので、チラチラ目が合うな、周りを見ている、誰かと関わりたいのかな?と思って見ていたのですが。

 

足の状態で動けなかった。

けど、その視線をしっかりキャッチして動く子がいる。

 

結局、仲間はよく状況を知っている。そういう点で、その子たちの関係の中では助けてをいえる関係なのかなと。

 

 

要は、追い出されたくない、切り離されたくない、見捨てられたくないと思いその人と仕方なくいるのか。

自分の素を出して、その人と一緒にいたいからいるのか。

 

集団でいる意味、人といる意味もだいぶ異なってくる。

 

今回は、そんな雰囲気がごちゃ混ぜになっているような感じがしました。

 

最後の授業では、他学科合同の『学び合い』授業でした。

人数は、相当多かったです。二つの部屋を合わせたくらい大きな部屋に、子供たちが二重の口の字で並べられた席に自由に座って、行う。

 

こちらの授業では、まとめたり解説したりはなく、完全に時間いっぱいの『学び合い』でした。

初めて見た合同『学び合い』

基本は個人でやったり、仲の良い子たちとやり始めるのですが。

 

意外と、大幅に席を移動して交流する子達もいる。

それは、同じ中学校出身で、学科が別になっていた子達や。

部活動のつながりで移動したり。

 

 

そういうのを見ていると、自分たちの高校だったら合同『学び合い』はきっとめちゃくちゃヒットするだろうなと思います。

自分たちの高校の男子は、最後に自主的に学年全員で写真を撮るくらい仲が良くて。

 

体育祭や球技大会も、学級を超えて遊んで、練習して盛り上がっていました。

テスト期間の放課後も、学級を超えて一つのクラスに集まって、勉強会をしていることも。

 

無理に区切るものではない。

自分にとってわかりやすい教え方をしてくれる人が、自分の学級内の人だけとも限らない。

多様で多数の繋がりを作るからこそ、いろんな人と関われる機会がある合同授業や異学年の『学び合い』は価値があるなと思います。

 

こういう学びの形態こそ、小規模学校やこれから子供の人数が少なくなってくる社会において必要だと思います。

 

結局ギリギリまでやらない子達も中にはいる。

ギリギリでやり終える人もいる。

 

課題を終えることが、生きることに直接繋がるかといえば微妙です。

しかし、人の力を借りれていない、やるべき課題をやらない。

 

そして何より、そう言う状況を見過ごす集団でいいと思ったまま行くのは、どうなのだろうと思ったり。

 

そう言う点で、人がたくさん増えることは繋がりが増える可能性を増やすこと。

しかし、集団を見とる、繋がりを強固にできるようになるか、というと、また別かもしれないなと。

 

 

合同『学び合い』。

初めて見ましたがとても面白かった。

 

机や椅子がなかったらどんな感じになるのか、と言うところも気になりました。

 

学級の環境をどのようにしていくのか。

そう言うところも『学び合い』で子供たちと共に考えていけたら良いのかなと思ったりしました。

 

今回の『学び合い』の授業では、生きるために使える知恵、繋がり。

単純に交流機会を多くするだけの『学び合い』ではなく。

 

どうやったら、生きていくことにつながる『学び合い』になるのか、と言うところも考えることができました。

 

授業見学を受け入れてくださった宮島さんをはじめ、学校の皆様ありがとうございました。