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海のように広い心で。

2025/1/29 大谷先生 授業見学

本日は、大谷先生の授業見学のために新潟県立有恒高等学校に伺いました。

以前ゼミの先輩の授業を見させていただいた時にも来た学校であり、改めて学校の雰囲気や子供達の様子などを観察する事ができました。

 

大谷先生とは、昨年度の直江津の会に参加させていただいた時に初めてお話しして、私が県外学校などの見学に行こうと決めたきっかけの言葉をいただいた方です。

 

『学び合い』というわけではないですが、自分が教員になった後の授業の雰囲気、子供達の対応の参考にさせていただくために、学ばせていただきました。

 

<①歴史総合>

最初は歴史総合でした。2時間続きの2時間目であり、丸つけ→世界恐慌の対策についてグループでまとめる、といった授業でした。

 

そもそも、歴史総合という授業自体、私が高校生だった時にはなかったもの。

その変更点などを聞きながら、改めて学校現場に入ってからも常に学ぶ意識を持ちながらいなくてはいけないなと再確認しました。

 

学習指導要領の変化、教科書の変化など、変化は多くあります。

その度に、柔軟に変化できる人間でありたいし、同時に学び続ける力を持って生活したいとも思いました。

 

さて、実際の授業。

以前先輩が『学び合い』の授業をされていた学級でもあったので、比較というか、違いがどのように出てくるのか、という部分にも着目しつつ見学させていただきました。

 

さて、丸付けに関しては結構わちゃわちゃしながら進んでいくのですが。

まず学級にはそもそもしっかり勉強したい、話を聞きたいという生徒も存在していて。

 

授業でまず大事なのは、そういった授業に肯定的な層をどれだけ納得させて学習に向かう集団にしていくかだと思います。

 

また、そのためには、それぞれが個人で集中していたり、自分ができていれば良いという考え方や、勉強に向かわない生徒たちをなんとかするのを諦める、という意識をなんとかしなければいけない。

 

すごく難しいですが、そこに必然性があれば変化していくとは思うのですが。

やはり難しい。

 

 

ある生徒たちが、授業中に列を跨いでお話ししている場面がある。

小学校のボランティアなどでもよく見られた光景のように思っています。

 

真面目に?勉強しなきゃなとか、あまり人に迷惑をかけたくないなと思っていた高校生の時の自分から考えると、なぜそういった行動をするのか、というところがよく分かりません。

 

師はよく、自己保全と種の保全ホモサピエンスの本能と言いますが。

それをすることによって、どのような得になっているのか。

 

考えられることとして、大きい声を出すことで、仲間を作る、仲間だと思っている、という状態。もしくは、誰かしらの気をひきたい、という状態。

 

そういう点で、学級における学習への雰囲気が二極化している、とも言えるかなと。

そして、それについて意外にもしっかり本人たちも気づいている。

 

しかし、声を掛け合ったり、目線で通じ合う、なんていうことができるのならば。

意外と、集団としての本来の力はすごいのかもしれないな、と思っています。

それが今、単純に学習に向いていないだけ。

 

自分が高校の時のように、静かに座って、黙々と学習する、というのが今となって本当に良かったかと言われると難しい。

 

別に賑やかでもやるし、班活動でもやる。でも、人の妨害にはならない。

やっぱりその違いは、学習するべき、そういった意識になっているかどうか。

それも、学習者誰かではなく、集団として全員が、という意識になっているか。

かと思いました。

 

 

ただ、思ったこととして、子供たち同士のコミュニケーションは取れているように感じたのです。

今の社会的に、教科の学習をする事が、学校に来たら求められる。

もし社会が違っていたら、この子達の能力は、光るのではないか、とも思うのです。

 

例えば、勉強じゃなくて一緒に何かを制作する、だとか。

職場体験を行う、とか。

 

そういったものがどう働くのか、学習外ではどのような姿なのかというところは気になりました。

 

 

<見るということの抑止力>

「全体を見る」ということは、全体の雰囲気や学習の進度を図るだけでなく、ある意味での抑止力になるなと思いました。

 

教科書を読むために、先生の目線が下がる。

注意をするために教卓から離れ、後列に向かって歩いてくる。

 

そういった、死角が生まれた時に、私語や目線の行き来が活発になりました。

逆に、全体を見渡しているときはそういったものは減る。

 

意外と、子供たちは先生のことを認識しているし、気づいているなと思います。

 

静かにさせたから良い、と一概には言えなくなってしまいましたが、それでも話を聞いて欲しい時などは必要なことだと思います。

 

以前見学に行った学校でも、全体を見て、常に笑顔でいらっしゃる先生がいました。

全体を見ることは、全体から見られていることでもある。

その本人が笑顔だからこそ、やっていることを肯定されている気持ちになる。

 

昨日のゼミの師の話ではないですが、表情というのは、やはり非常に大事だなと。

それだけでコミュニケーションが取れてしまう。

 

ちゃんと、意識するべきところだなと考えさせられました。

 

<学級の空気感(物理)>

以前水落先生の講義か何かで、学級の空気も大切であると。

空気というのは、そのままの意味で。くぐもった、濁った空気。温度、湿度。光。

それらは人間に与える影響は大きいと思います。

 

暑ければ、頭は回らない。

暗ければ、意識も暗くなる。

濁った空気は話す雰囲気を作りにくくなる。

 

換気、カーテンを開ける、部屋の掃除。

集団のメンタルなどに意外にも大きく関わってくる要因。

学級整備は、すごく大切なところだなと思います。

 

<なぜか。>

聞いていると、班活動や一斉指導の時にお話ししている子供達がいます。

それはもう注意しても仕方がない。

 

気になるのは、なぜそんなに話すのか、ということです。

 

話す分の話題があるのもすごいし、朝から放課後まで、全授業中にずっと話し続けられるのならそれはすごいことでもあると思ったり。

 

どこから話題が出てくるのか。なぜそれをあまり話してはいけない、とされている授業中にできるのか。

 

すごく不思議でした。

 

確かに、授業中に褒められたことではないのかもしれません。

でも、ずっと話せるのはすごいことだし、そういう話に乗ってくれる仲間がいるのは、ある種しっかりとしたつながりがある、と言えるのかもしれません。

 

教員的には、それが学習の部分に力が注げるようになって欲しい、と思ってしまうのですが。

 

 

スマホ使用についてもです。

先生の目を盗んで、こっそりスマホでゲームする姿もありました。

授業中に室内で対戦かぁ、と思って見ていたのですが。

 

でも、先生が来ると隠す。

 

結構大きな声で私語をしたり、先生にどう思われても良い、というような雰囲気を感じるのに、なぜ隠すのか。

注意されても効かないのなら、堂々とやったら良いのではないか?と思ったのですが。

何に怯えて、何から隠れてやっているのか。

スマホを取り上げられる可能性があるなら、そもそもそんな危険を犯さない。

そこに、どういう思考が働いているのか、気になりました。

 

<自分がもし、担任するのなら>

授業を見ながら、自分がもしこの学級を担任するのならばどうするのか、と考えていました。

実際なれるわけでも、経験があるわけでもないので自由に書きますが。

 

一つ大事なのは、集団に勉強させたいのならば、まずは少しずつでも勉強している人を見取り、価値付けていくことが大事だなと。

見ていて思ったことを正直に書くなら、「当たり前のレベルが低いこと」

 

人の話を聞く、人の迷惑になることをしない、相手を傷つけない。

やるべきことが何か判断し、それに向かう。嫌なことから逃げない。

 

これらは、大人になって、働く、生きていく上で必要なことだと思います。

逆に言えば、それができなければ社会に出てもうまくいかない。

 

それは、なんとか学校の中でできるようにさせたいところだと思います。

 

だから、そういう当たり前のレベルが、もっと高いところにあることを、わかる生徒にまず伝えていく必要がある。

そして、集団全体でそもそも当たり前のレベルを上げていくしかない。

 

もう一つは、「誰一人見捨てない」を、教員自身が実践すること。

自分には向かってきたり、話を聞かなかったり。

相性もあるので、本当に嫌になったりする生徒が、もしかしたらこれから現れるかもしれない。

 

でも、見捨てて良い理由にはならない。

 

当たり前ですが、生徒は先生の腹を読むのが上手い。

先生が集団を、集団の誰かを見捨てていれば。

集団も、その子を見捨てる。

 

見捨てるというのは、諦めることでもあると思います。

 

なんとかするのが難しい。でも、なんとかしなくてはいけない、に向き合い続ける。

集団とともに、最後まで。

 

とても苦しいし、きついことだと思います。

それを、頑張る。

 

それが、自分がもし担任になったら、というのを考えた時に思ったことでした。

 

<6限 ロングホームルーム>

最後の授業は、先生が担任をされている1年生の教室でホームルームの見学でした。

見学といっても、席替えや消毒などをしたり。

 

一番大きかったのは、なんちゃって問答体験でした。

 

簡単に言えば、質問コーナーです。

いきなりきた学生、何も知らない人に質問はあるのか?と思っていて。

なので、意外とふわふわした気持ちで質問を待っていたのですが。

 

少しそういった時間が過ぎていくうちに、意外にも核心的な質問をしてくる子供達がいる。

 

例えば、「小学校の先生になるなら、どの学年がいいですか?」

という質問だったり。

 

もう最初は、好きな食べ物はーとかから始まると思っていたので、びっくりでした。

 

 

今日一番自分の芯に響いた質問は、

「誰のために先生になりたいんですか?自分ですか。生徒ですか?」

 

これは、めちゃくちゃ悩みました。

おそらく大学二年生の時の自分ならば、生徒のために!と真っ先に答えていたところです。

でも、今は違います。順序が。

教員といっても、そもそも労働です。働くことは、お金を稼ぐこと。

お金を稼ぐことが目的ではなく、稼いだお金を何に使うか、そこでどんな幸せを得るか。

 

そういうことを考えていくと、まずは働くのは自分のため。

そして、それを使うのは自分や家族が幸せになるためです。

 

そして、自分や自分の周りが幸せなら、良い気持ちで学校に行ける。

そうすると、良い気持ちで子供達と関われる。

それが何かしら、子供達の幸せにつながって、子供達のためになる。

 

だから、自分のためであり、それが生徒のためになる。

 

そんな回答が出ました。

 

こんな問答をやって見て、気づいたこと。

 

1つは、やはり問答は、自分の究極的な自己開示であり、生徒側も自己開示している。

だからこそ、この質問してもいいかな、と思って質問できる集団になっているかどうか。

自分をさらけ出せる集団になっているかという集団を測る一つの物差しになるなと。

 

もう一つは、自分の中には、常に本音と建前があって。咄嗟に出やすいのは、建前なんだなということ。

今回の質問も、最初は体裁の良い回答を出そうとする自分がいました。

それをすらすら述べようとする自分の口。

でも、そんなものは子供たちからすぐ見抜かれる。

思ってもいないことは、やっぱり気づく。

 

だから、本音で言うって、まとまってないし、恥ずかしいし、難しいなとも思いました。

 

そんな感じで、問答で質問される側ってあまりないのですが。

すごく良い経験だったなと思います。

自分の考えていることを、集団全体に話すことの難しさ。

先生が、一見学者がこんなことを言っても大丈夫なのか?という周りからの視線。

自分の本質。

 

そう言ったものに気づかせてもらえた時間でした。

 

きっと、自分がこれから学校で問答をやっていく上でも。

そう言った気づきや、自分すら気づいていなかった本質が出てきたり。

そこから新しい学びにつながっていくこともたくさんあるなと思って。

 

今からすごくワクワクした気持ちになりました。

 

<まとめ>

今回の授業見学は、誘っていただいたと言うこともあって、フィードバックするのも結構ドキドキしていたり笑

 

ですが、そもそも学びがない授業、見学はないと思っています。

学びがなかったとしたら、それは自分が学びに気づけなかっただけ。

 

今回は、『学び合い』ではないけれど、自分に必要な時間だったと心から言えます。

これからは一斉指導のやり方もしっかり考えていきたいところでしたし。

何より学級経営の仕方は人それぞれ。

 

短い時間、それも初めてきた人との問答。

そこからでも気づくことがたくさんありました。

 

本日は、大谷先生をはじめ、有恒高等学校の皆様、学びと貴重な経験をさせていただき、ありがとうございました。

 

また、西川研究室の先輩方も、発表、一年間の支援プロお疲れ様でした!