先日、神奈川県の藤田純祈先生の授業を見学させていただきました。
今回は、現職の先生方からお誘いいただき、現職の教員の方3名と学生2人で参加させていただきました。
見学に一緒に行かせていただいた方々とは全員面識がある状態で、だからこそ学びの振り返りなども非常にやりやすかったです。
誘っていただき、誠にありがとうございました。
私は、見学のメモは基本的にタブレットのGoodnotesにとっているのですが、そのページ数から大体自分の学びの量がわかります。
さて。いつもの比にならない量のメモ。どう整理し、ブログに書けるか。
まとまった時間が取れなければ難しいなと思っていたこともあり、少し日にちが経ってしまいましたが、記録していきたいと思います。
<学校の特色>
神奈川県の茅ヶ崎市立第一中学校にお邪魔させていただきました。
ここは私の地元の学校と違い、お昼ご飯は弁当配布の形式。
そのため、給食指導だったり、配膳に時間がかからないため短時間でご飯が済ませられると言うのがすごいなと思いました。
給食があることも一長一短ありますが、基本的に給食だと思っていた自分からしたらとても意外な物でした。
給食指導は大事でもありますが、時間を新しく作り、別のことに充てることもできるなと。
また、単純に食事の時間を多くとることでしっかり、よく噛んで食べることにもつながったりするのではないかなぁと思い。
配膳によって時間差が生まれ、食べ終わらずに辛い気持ちをする生徒を少なくする手段としては良いなと感じました。
結局、こういった学びは県外に出てみないとわからないものです。
特に私は地元で育ち、地元で大学に通い、地元で就職する身。
それが当たり前だ、と言うふうに考えず、よりいろんな視点を取り入れていくのが良いなと改めて考えさせられました。
<授業見学の前話>
ここは、藤田先生が担任していないクラスでの授業でした。教科は社会科。
授業に入る前に、休憩室で少しお話をしたのですが。
「見学するのは3年生。もうすでに、3年内容は10月で終わっている。」
仰天です。終わっている。。。?
学習内容が、、、?
でも、聞いたことがありました。『学び合い』でやっていると、無駄なところに時間をかけないからこそ、スピードが早く終わる。単元が終わってしまう、ということ。
本当にそうなのか、と実感。
さて、今回の授業では、内容が終わっているということで、歴史分野の復習になっていました。
自分で選択するコースを決めて、まとめをするのか、少し発展的なことをやるのか、人それぞれ。
また、それぞれのコースでやるべきことを事前に先生から提示されており、それをしっかりなぞっていくという形式でした。
イメージは、単元『学び合い』をやるときに、内容一覧を書いたプリントを渡す、的な感覚ですが。そのプリントや、内容が作りこまれている。
単純に、今後の授業方針について書いてあるプリントなはずですが、どのような力をつけるべきなのか、どこまでやるのか、具体的に何をするのか、一枚でわかりやすく書いてある。
授業中、子供たちもそのプリントを持って、みながらやっていたのに気づきました。
そういったところから、全員が目標をしっかり理解、共有した上で授業が進んでいるんだなと。
<授業の始まり>
さて、ではいざ学級へ行って授業開始前。
本当に見ていて不思議な感覚でした。
早い子は授業5分前に着席。
ほとんどの子も、2分前には着席し、周りの人とお話ししている。
飛ぶのは、「時間みてねー!」の声がけ。これも生徒から。
結局、常に時間を意識した行動を、全員がしている、そんな印象を受けました。
その後、藤田先生は授業時間分のタイマーと先生の説明、終わりの話の時間を除いた45分のタイマーをセット。
タイマー二つ使いによって、生徒が動ける時間のタイム、全ての授業の時間のタイムをわかりやすく区切られているなと感じました。
そういった、時間の意識も子供たちが声がけしているような、そういう意識を醸成しているのかなと感じます。
先生の説明も、3分くらいで終わりました。
そこからは、もう各自の時間になっています。
少しの違和感。
セオリー通りの『学び合い』の見た目をしている。最初そうだな、『学び合い』だなと。
でも、明確に何かが違う。セオリー通りではない。
この疑問は後に書きますが、そんな疑問を感じていました。
生徒たちは、自分のやるプロジェクトに沿って、学習していました。
歴史の出来事や名前についてその説明文を調べて書いている子もいれば、先生が作ったミニテストをやっている子もいる。
もちろん、何をするのも自由だと最初に言われましたし、みんなもそれは理解している感じ。
だから、教科書で調べて説明文を書いている子もいれば、タブレットで検索している子もいる。班で一緒にやっている人や、一人で挑戦している人もいて、本当にさまざまです。
語りも早々に、全員がやるべきことに集中して取り組んでいる。
すごいのは、全員が、本当に全員が学習しているというところ。
雑談や、人と協力していることはあれど、別のことをしていたりだれている人が一人もいない。
<先生の動き>
藤田先生自身はどのような行動をされているのか、みていました。
特に声がけすることや、大きい声で全体に何か話すわけではなく。
ただ、ニコニコしている。
みて回ったり、少し生徒と雑談することはあれど、笑いながら話している。
そして、30秒以内くらいで話した後に、子供達はまた学習に戻っていく。
時々、生徒が顔を上げて、先生を探すけれど、目が合えばにっこり微笑まれるので、すぐに自分の作業に戻る。その繰り返し。
『学び合い』で、大きく声がけしたりすることは、結局良い行動を褒めて、子供達を流動的にしたり、承認していくということだと思っていました。
おそらく、藤田先生はそれを笑顔と目線だけで行っている。
笑顔で、どしたー、やってるかー?それでいいよー、やりなー、がんばれー。
そういう口に出していない言葉が、表情からメッセージとして伝わっているのではないかと。
つまり、何も言わずとも、直接声をかけずとも。
子供たちは、自分のやっていることを肯定し、承認を受け、集中して取り組みに戻っていく。
その繰り返し。
それが、とにかくすごかった。
私が『学び合い』を初めてした時は、集団づくりの必要性もあったことから、授業中ずっとフィードバックを続けていました。雑談もするけれど、良い行動を褒め、目標を常に確認するような声がけ。
それによって、子供たちは実際に動き、学んでくれましたが。
終わった後は、もうフラフラでした。声もかれていて。
そんな状態になっていた。
自分がすぐできるとは言えません。
でも、確かに笑顔で、全て肯定してくれている、そんな余裕を先生が持っていれば。
確かに子供たちは、自分のやるべきことに自信を持って取り組めるなと思いました。
これは、本当に取り入れたいことでもあり、自分の余裕さ、穏やかさ、それらが学級に与える影響の大きさに気づいた時でもありました。
<授業中のミニテスト>
基本は歴史の振り返りとして、物事や人物の名前が書いてあるプリントの横に空白があって、そこを説明文で埋めていく作業。
でも、自信がある人は、ミニテストに挑戦できる、という形。
ミニテストは、単元での語句が無数に並べられていて、どの文化、どの時代のものか分類していくというもの。
ミニテストを集中して受けたいゾーン(教室右前)が作られていて、そこに来て静かにやっている子供達もいる。
つまり、現時点で多様な方法で学習、まとめをしている子供たちと、ミニテストを受ける子供達でクラスが分かれているという感覚。
ミニテストは、先生が手渡しで配り、直接先生が丸付け、それを丸付け後にすぐ返却するという形。
ここにも、実は秘密がありました。このことは懇親会で分かったことでもあるので、それはまた後で。
小テストはやるかやらないかは個人の裁量に任されています。
自分の学習が進んで、良いなと思えばミニテストをやってみる。
そこの選択があるからこそ、全員がストレスなくできる。
同じ課題を「全員ができる」というのは、結構プレッシャーである。
最後までできない子は、ずっと辛い思いをする。
そもそも、本当に全員ができる必要があるのか。
社会的にもそうだし。
それに、全員が、「その時、その授業」でできる必要があるか、と言われればそうではない。
一週間後にできていれば良い、ということもある。
だから、「全員ができる」という言葉は、結構難しいなと感じます。
<子供達の学習の姿>
すごいのは、全員が時間いっぱい自分の学習に取り組み続けているということ。
遊ぶでも、雑談するでもなく、自分のやるべき課題に向き合って。
必要があれば、人と協力する、という様子。
これって、普通の『学び合い』でもすごいことだと思うのです。
必ず、それも一年もやっていれば、だれ始める、遊び始める子供がいてもおかしくない。
むしろ、みんなそこに悩みを持っている。
なのに、教科書内容が終わった今ですら、本当に全員が学習に取り組んでいる空気は、すごさ、そして異常。
それを成り立たせているのは、やはり肯定的な教員の視線や、自分でレベルを選択し、自分の課題を自分で見つけ、自分で考えていける仕組み。
子供達に多様な選択肢が共有されていて、強制はされていない。
そういう空気感、学習環境だからこそ、うまくいっているし、全員が学習に取り組む姿勢になっているのだなと感じます。
協力する時も、自分で考える時も、その学習者の個性が出る。
自分で思考して、わからなければ大きい声でそれを共有。
それについてわかる子を呼ぶか、来てくれる。
覚え方も理解の仕方も人それぞれ。だけど、それを選択していい、間違えたら違う選択をしても良い、
そういう選択の豊富さが、子供達の学習を成立させているように感じました。
<ミニテストへの勧誘>
時間が半分を過ぎてくると、先生が少し動いて、
「ミニテストどう、やってみない?」という声がけを少しするようになりました。
これも、もちろん強制ではなくて。
優しい提案でした。
断るもあり、やってみよう、と言えば応援する。
とくに、班単位で学習していた子供たちは、ずっとプリントで説明を書いていました。
アウトプットする場面はどこにあるかなぁ、とみていたのですが、そのタイミングくらいで先生が来て声がけ。
ちょっと悩んで、時間が経った後に班みんなでミニテストをもらっていました。
一人では挑戦できなくても、みんなと一緒に挑戦する。
できたところ、できなかったところを共有して、また次の学習に活かす。
お互いの力を借りながら、やっぱり最終的には自分の問題として考えているのがすごい。
<学級での疑問>
一授業を見た感想として出たのは、
全員が、わからないこと、人に聞くことを恥ずかしいと思っていない、ということでした。
学校のボランティアなんかにいくと、通りかかると答えを隠す子やできないところを空欄にしたままにする生徒を結構な頻度で見ます。
でも、そんな空気感はなく。
「わかんない、教えて!」だったり、「お前何点だった?」のように、
お互いのわからないところを曝け出して、それも全体にさらけ出せるようなそんな空気感。
これが、一番すごいなと感じたところ。
結局、学習についていけなくなる場合で一番多いのは、わからなくなったからではなく。
わからないところを、人に聞けない、表に出せないまま行くことだと思っています。
それを、クラス全体ができるのは、すごい。
そこに、先生の価値づけがしっかり存在しているのだと感じました。
とりあえず、わからないことも、わかったことも、全部言える空間での子供達の学びは、とても楽しそうだったのを印象で残っています。
子供達から受けた感覚。
「授業を受けている、ではなく。授業をしている。」
子供達が主語になった授業であり、子供達が主体で授業をしていたように感じました。
<ロイロノートでの取り組み>
子供達の中には、ロイロノートを使って情報をまとめたりしている子供たちもいました。
プリントを写真で撮り、自分で書き写したり、勉強しなおしたり。
また、ロイロノートは振り返りの道具にもなっていました。
全員が、目標や自分がやることがわかる黄色いプリントを持っていて。
そこを見ながら、一授業の振り返りをしている。
振り返りは、ロイロノートを使って、回、日付、計画、実施、次回までの家庭学習、本日の学びをそれぞれ記入。
これのすごいところは、PDCAサイクルを回せるような振り返りになっていること。
計画し、それを実行できたかどうか。今回の学びはどんなことがあって、家庭でどう学習するか。
結局、一授業だけでは忘れてしまうことも、生徒自ら家庭学習をしようと思えば、強力な記憶に残る。
単純な学習の振り返りを書くだけでなく、計画性や次回の見通しなども立てられる振り返りになっていることに驚きました。
豊富な手段を子供達に提供し、それを子供たち自らが使っていく。
自分で選択し、実行する。
授業振り返りをどうしようか考えていたので、とても参考になりました。
<見学②>
最後の授業です。
先ほどとは別のクラスだったのですが、こっちも驚き。
4分前に全員着席。なんじゃそれ。
内容としては、先ほどの学級より一つ進んでいるということもあって。
最初の先生の話は30秒で終了。そこから活動スタート。
語りも、授業方法も、特になく。一瞬で始まる。
むしろ子供たちとさっと雑談して、じゃ、始めよか、みたいな感じ。
こちらの学級は、また先ほどの学級とは違う学習方法をとっている子もいました。
ネットで検索して、動画で学習しなおしている子もいる。
本当に、いろんな手段を使って学習していました。
<先生の動き②>
こちらでも、あまり変わらない動きでした。
ずっとニコニコして。子供たちと時々雑談して楽しんで。
でも長過ぎず、適度な距離感で話して、また前で見守る。
先生は見ていないようでしっかり見ていて。聞いていないようでいてしっかり聞いていて。
でも、特に声がけするわけではなく、目があったらにこやかに肯定。
授業中に声がけをしない『学び合い』というのも見たことがあります。
上手くいっていない状態も。
何が違っているのか。
やっぱり、表情や小さな動作。非言語における即時のフィードバックがちゃんとあることの違い、のように思います。
一切声がけをしない人でも、周りを見ていなかったり、気になる子だけに注目したり。
そうではなく、あくまで全体を見て、聞いて。でも何も言わず、にこやかに。
声がけによるフィードバックも大事ですが、何より子供達が肯定、承認されている状態が学習に向かえる状態なのかな、と思います。
そこを欠かすと、放任になっていく、そんな気がしました。
<トイレに行く時>
学校では、トイレに行くときに、先生トイレ行ってもいいですか?なんていう声をよく聞きます。
私も学生の時にずっと思っていたことで、なんでトイレに行くのに許可がいるのか。
それは多分、トイレに行っていなくなってしまう子が現れたり、知らないうちにいなくなっているのを避けるためでしょう。
友達に行っていけばいいのではないか?と思っています。
あの一斉指導中の、先生に対して「トイレ行ってきてもいいですか?」という言葉は、とても勇気がいる。
だからこそ、このクラスで、「おい、俺ちょっとトイレ行ってくるわ」って言ってトイレに行った生徒がいたのが、印象に残る。
友達に伝えていけば、誰かしらが知っている状態になる。
そうだよな、それでいいんだよなって思います。
誰かがわかっていること、それが大事だよなって思いました。
<ある子のお話>
授業中に、ある生徒にお話を聞くことができました。
そこでの会話をいくつか。
まず聞いたのは、いつもこんな感じの授業?って。
こういう時もあるし、先生が説明する時もあるよー。って。
ここからが驚き。
これも面白いし、先生が説明するのもわかりやすくて面白いんだよね、って。
最初社会苦手だったけど、社会好きになったんだよ、先生の授業はわかりやすいし、楽しい、点数上がったんだよって。
なんだそれは。先生として、きっと言われて一番嬉しい言葉じゃないか。
それをニコニコ語る子が、すごく眩しかった。
確かに、『学び合い』はつながりを作り、みんなで頑張ろうとする。
でも、それだけじゃない。
藤田先生の授業は、ちゃんと、教科の良さも、楽しさも伝えて。
尚且つ、学習ができるようになる、成長する、ということを体験できるような授業になっていました。
その工夫は端々にあります。
例えばレポート。
テストの点と、レポートで成績がつけられるそうで。
テストの点数が悪かったりしたら、レポートをみんな必死に頑張る。
レポートは、授業内完成で、先生に何度でも見せに行って良い。
A○もらっている子に聞きに行ってもいい。
そうやって、自分のレポートをA○にしていく。
子供達がレポートを見せてくれたのですが、すごかった。
分量も、頑張りも。何度も消して、書き直した後もあった。
それをニッコニコで掲げてた。
授業で使っているノートを見せてもらいました。
基本的に、子供たちは板書をノートに取るのではなくて。
単元始めに、一括して先生からプリント(おそらく教科書を先生が要約した板書プリントのようなもの)を配布して、一斉にノートに貼る。
それに、授業中どんどん書き込んでいくという形式。
わざわざ教科書に書いてあることを写すではなくて、先生の話や面白いと思ったこと、学んだことを書き込めるシステムであり、子供達も学びとは何か、メモとは何かを考えているようにも感じました。
それに、そうやって単元始めに配ることで、予習復習も相当しやすい環境が整っているなと感じます。
レポートを書くときも、教科書も使うけれど、ノートを見ると言っていて。
私が中学生の時に作ったノートって、見返したっけな?なんて思うけれど。
そこにちゃんと価値があるものを作っているのがすごい。
もっとすごかったのは、自分が今どこの評価にいるのかがわかる表が配られているところ。
テストの点数やレポートに点数などを記入していくと、成績表をつける前に自分の点数がわかる、自分の今の評価がわかるようなプリントが配布されていました。
授業の見通しも立つし、自分の立ち位置を知って、必要な努力量、どこに時間をかけるべきかがわかるのが素晴らしい。
それを子供達が使って、時には友人と共有して、自分のこととして考えているのがすごかったです。
<授業の凄さ>
最初に見た時は、『学び合い』じゃないか、これ。と感じた授業。
でも、いろんなところを見て、話を聞いているとわかってくることがある。
徹底された振り返りと計画表。
現在の立ち位置や評価がわかる目標や評価の道標。
学びを増やすためのレポートのシステム。
どれも、はいどうぞ、の『学び合い』を完璧に補完するためのもののように感じて。
はいどうぞ、は確かに誰でもできる。セオリー通りの『学び合い』は本を読めばできる。
でも、真の『学び合い』。全員の学習がしっかりと成立して、それを一年以上という長いスパンで成り立たせる。
そのためには、はいどうぞ、だけでない、誰でもできるわけではない、先生の技量があるなと感じます。
それはやっぱり、教材研究や、一斉指導の能力、物事の考え方、人徳。
そういう、教員としての一般的に求められる力が高いほど、
『学び合い』もより良いものになる。
そんな気がしました。
<授業後の対談>
先生と授業後に少し対談しました。そこでの話。
ロイロノートでの振り返り。
自己調整だったりの面を兼ねていて。子供は自分のことをメタ認知する機会になっている。
先生は、それらを見て、学びを保証しているよ、というアリバイにもなる。
そういうのがすごい。要は、今の教育において大事なこと、押さえておくべきことをしっかりと取り入れつつ、自分の『学び合い』のオリジナリティにされている。
「できない」ことを恥ずかしいと思う『学び合い』は、上手くいかない。
「できない」ことを笑える『学び合い』が、上手くいく。
先生がミニテストの丸付けをする理由。
確かに、『学び合い』では子供同士でミニテストをまるつけさせれば良いのに、なんて思って見ていましたが、そこにもしっかり理由がありました。
丸付けをしたミニテストを渡すその時に、先生は一番注意を払っているそうで。
それは、子供達から伝わってくる感情。
プリントをもらう際の力加減。取り方、息遣い。
そう言ったものを感じられるのが、手渡の良いところだと。
その動作から、子供達が「わからないこと、間違えること」についてどう思っているのか、そこを測る役目を、手渡が担っている、と。
ええ、そんなこと考えたこともない!
衝撃的でした。
でも、確かにプリントの受け取り方一つとっても、いろいろあって。
その子の感情は、そういったさりげない動作に現れる。
そういうもの全て、要は五感をフルに使って、個を、集団を「見ている」のだなと感じました。
私も、最近は目で見る、耳で見る、ができるようになってきましたが。
そうか、これこそ五感全てで「みる」ということなんだな、と改めて理解。
<『学び合い』のセオリーとの共通点>
『学び合い』の授業は、結局自分のできないところをオープンにすること。
それこそ、『学び合い』のしんどいところでもある。
どうオープンにしていくのか。
どうオープンの機会を作るのか。
どうオープンにすることが特であることを伝えるか。
これは、語りや全員達成、という言葉だけで本当に補えるのか。
「わからない」があるから「わかる」がある。
でも、永遠に「わからない」を言えなければ、「わかる」にも到達しない。
藤田先生の授業では、そうではない。
「わからないこ」に対しては、先生のところにおいで、という。
セオリーでは、あまり教えるな、というふうになっているけれど。
そうではない。
先生のところに、わからないことを聞きにいく。その姿を見せる。
実は、その時からすでに学級に対してのその子の自己開示が始まっている。
そうやって、ゆっくり自己開示していけば、先生のところへ来なくても友達に聞きに行けるようになる。
要は、段階を踏んでいくことが大事。
いきなり、私は教えない、と言い切るのではなくて。
確かに、周りに聞いた方が得であることを伝えるのはそうだけれど。
でも、自分のところに来てくれた、ということが自己開示してくれていることだと理解し、
その行動を、次につながる成長と捉えるか。それが大事だなと思いました。
従業者を含めて、わからないこと、できないことを自己開示していく。
この『自己開示』の強さ、凄さ。
それができるクラスは、強いし、集団として有機的である。
<レポートの評価基準>
評価基準は、子供達に伝えない。
それによって、子供たち同士がレポートを見せ合って、自分たちの中で評価基準を探し始める。
これも、「わからない」ができる学級だからできること。
<授業の軸>
そもそも、できること、わかること、に対してフォーカスしていない。
むしろ、できないことに対してフォーカスをしている。
学校生活とは、そのできないに向き合って、できるようにしていくこと。
だから、できるが評価されるというより、できるようになったが評価される空間。
だから、「全員ができる」というのは、その価値観に合っていない。
できないがあるから、できるがある。
だから、「みんなでできる」授業を考えている、と。
だから、同じ課題をその時間で全員が、というよりも。
バラバラの課題でも、各々が自分の計画でできることを増やす。
そういう軸で授業が作られていました。
<自己開示をひろう>
このお話を受けて、やっと授業中の先生の行動も理解できました。
先生のにこやかな表情。
あれば、生徒の自己開示を、肯定している、ということでした。
わからないところがあることは恥ずかしいことではない。
そこをわかる、できるに変えていくことが成長である、そこが大事であるという軸。
その軸があるからこそ、「できない」という自己開示に、「やってみようよ」という肯定の笑顔で返す。
あまり自己開示がないところには、ちょこっと話に行って、これもまた自己開示をひろう。
そうやって、子供達を承認して、肯定して、進ませていく。そうなのかな、と思いました。
〜懇親会でのお話〜
見学に誘ってくださった方々、そして授業者の藤田先生との懇親会にも参加させていただきました。
そこでもたくさんの学びが。
<『学び合い』のレベル>
Lv1 『学び合い』を知る。
Lv2 『学び合い』を実践する
Lv3 『学び合い』を一般に見せることができる
<残りの数ヶ月で>
新人として働く前に、何ができるか、という質問。
大事なスキル。
「教材研究」と、「人を動かす力」
<どんな授業?>
自分ってちょっとすごくない?って思わせるような、そんなふうに子供が思える授業。
そして、それを教員である自分も感じるように。
そういう軸を持たれて授業されていました。
<授業観察させていただいた学級の学級経営の視点>
できないことが悪いという空間じゃない。そうさせないことが大事。
そうではないということを教員もしっかり価値づけていくことが大事。
だからこそ、A+は、ただの記号でしかない。
大事なのは、そこではない、ということ。
<今の子供達>
ちょうど私ぐらい(現在20前半)くらいまでは、「自由」とは嬉しいものだった。
今の子は、「自由である」ということを怖がったり、指示待ちになりやすいのではないか。
それに、なんだか子供達が幼く感じる。
その理由には、スマホがある、、、?
個別最適化〜と言われるが、そもそも今の社会は個別最適化されている。
例えば、スマホのおすすめ機能。
これこそ、本当に個別最適化である。
<自立した集団へ>
手綱を握る、離す。
どこまでやっていいのか、把握させる。ダメなラインはしっかりいう。
これは、私が山崎さんの見学の際に自分の学級への願い「教員がいなくても、自立した集団」になることだと話した時のアドバイスと同じでした。
<全員達成について>
1時間の『学び合い』よりも週1の『学び合い』
週1の学び合いよりも毎月の『学び合い』
毎月の『学び合い』より毎日の『学び合い』
毎日の『学び合い』よりも一年の『学び合い』の方が、はるかに難しい。
もしも、毎日、一年通してやるのであれば。
一人も見捨てない、全員達成という言葉から離れていく必要がある。
「みんなができる」ではなく、「みんなでできる」によって、全員達成から離れることができる。
こういう、結局先生の考えが、『学び合い』にすごく反映されているなと感じます。
自分らしさ、自分なり、自分の願い、自分の核。それが大事。
<他者の授業>
いろんな人、いろんな教え方があっていい。
自分の授業以外もよくて、素敵だと思える。
違うかもと思っても、とりあえずやってみたり。
いろいろやってみて。それでも自分の考えがあったら。
「どの選択も正しくて、素晴らしいけれど。でも自分はこう思います!」って、
図々しく言えるようになったら、素敵。
<ピンチはチャンス>
うまく行っていないこと、そういう時こそ、実はチャンスである。
そういう状態を受け止め、分析できているという時点で、良い。
学級経営も同じ。
できない、わからない、を素直に出せる時点で、価値があって、良い。
ピンチは、チャンス。
悩んで、行動して、もがいて。
それでも、自分は『学び合い』から降りたくない!って思うことに、価値がある。
それに、うまく行ってないのは実は楽しくて面白いこと。
そこに、分析の余地があるから。
私も、どこかで聞いたことがあります。
失敗すると、それまで一時関数のグラフ的に伸びてきたのが、またゼロに戻されるイメージ。
でも、そんなことはない。失敗しても、失敗という学びがあるからこそ、実はグラフは直線上を移動し続けている。
逆に、プラスのことしか言っていない人の方が怖い。
<まとめ>
いつものことですが、記録だけで目一杯の分量になってしまいました。
今回の授業は、なかなか衝撃的でした。
見た目は、『学び合い』なんですが。
どこまでも、緻密に作り込まれている、そんな印象を持ちました。
というよりも、そうですね。
『学び合い』を、楽な手段で使うのではなくて。
しっかりと、集団を作る、学習を成立させる、という目的を持って行うとき。
『学び合い』を補完できるのが、教員の役目。
この教員の役目は、きっとたくさんあって。
教材研究や、先進的な取り組みなんかも、組み合わせたりして。
そういう、『学び合い』に自分のオリジナリティを出す、というイメージでしょうか。
だから、実は私の中である一つのことを考えるようになりました。
これは、生き方レベルの『学び合い』とかとは離れるのかもしれませんが、
授業レベルにおける『学び合い』では。
最初は『学び合い』をセオリー通りに。
次に『学び合い』をベースに、声がけや異学年、自由進度を組み合わせたり。
最後に、『学び合い』と言わなくなる。
最後が少しわかりづらいですね。
完全に、自分のものにする、という感覚でしょうか。
藤田さんや山崎さんは、『学び合い』と言わず、自分の授業としてそれを完成させていました。
そこには、『学び合い』における理論がしっかりと落ちていて。
尚且つ、自分の教員としてのスキルややれることがプラスされて。
そうすることで、それは『学び合い』ではない自分だけのオリジナルの『』
だから、自分の目指すべきところはその『』。
それも、人のものを真似して、というのとも違う。
自分の願いと、学級像と。
自分がやりたいこと、やってみたいことと。
自分の能力と、適正と、考え方と価値観と。
それらが全てカチッと組み合わさった時に、やれるのが
自分の考えた、自分だけの、オリジナル『』
なんて名前がつくのかはわかりませんが、とりあえず区別することとして
『学び合い』と『』というふうに書こうと思いますが。
自分の目指す授業がどんなのか、すごくイメージが膨らみました。
『』に到達するために、自分ができること。
たくさんあるなって思います。
教材研究も、見学も。
全て、自分のオリジナル『』を作るための手札になる。
それは、子供達によってもきっと変わるし、今後の経験によっても大きく変わるけれど。
教員として、目指したい場所、やってみたいことができました。
見学させていただいた、藤田先生をはじめ、茅ヶ崎市立第一中学校の皆様。
授業見学に誘ってくださった先生方。一緒に学びを深めた先輩。
本当に、ありがとうございました。