今日もいわし、はぐれてます。

海のように広い心で。

呼吸するように学べ。

フォーラムが終わり1日経ちました。

昨日は逃走中もあったので、そのブログでしたが、これからは少しフォーラムの振り返りを。

私は、先日新潟県上越市で行われた『明日の教育を考えるフォーラム』の実行委員兼分科会登壇者として参加させていただきました。

 

今日は、自分が分科会をやってみての感想、というかその後のフィードバックを。

 

私の分科会のタイトルは『明日の教育を背負っていく1人として』でした。

内容は、会に参加してくださった方のためのものなので、詳しいことは控えたいと思っています。もしかしたら今後のブログに載せるかもしれませんが。

 

概要を書けば、明日の教育を背負っていく1人として、教員として、一社会人として、何ができるか、どのように教育に関わっていけるかをお話しさせていただいた感じです。

またおまけでは、実はゼミ生にも言ったことがないような、自分の今後の展望をお話しさせていただきました。

 

こういった分科会を終えて。もっとも大きい感情は、「悔しい」「足りていない」という感情でした。

 

もちろん、話すことは全て出し切りましたし、質問にも全力で答えさせていただきました。

今考えられることもやったし、資料も急いで作ったとはいえ、不十分なことはなかったと言いきれます。

 

その上で、自分の足りなさを痛感します。

 

それはなぜか。

 

語ったのは、理想だからです。

 

もちろん、まだ教員を経験していない身として話すからこそ、

「こうなったらいい」「こうありたい」を語るのは間違っていなかったと思っています。

いろんな方から、そういった思いをすでに持てていることが大切で、今後に活きると言ってもらえました。

 

確かに、気持ちは本当にたくさんあります。やる気も。

 

でも、少し自惚もある。

色んな方と話して色んな場所に行って。たくさん知って、たくさん学びました。

 

そこから、こうありたい、こうなりたい、を考えられたのはよかった。間違ってない。

 

足りなかったのは、理論や計画性。

 

今回、教員としてやりたいこと、社会人としてやりたいことをそれぞれ3つずつ挙げました。

どれも、自分の気持ちでもあるし、こんな社会になってほしいという気持ちもある。

 

でも、自分の中でまだそれを確実にできる、やり切る手段や計画が未熟だであることを理解しました。

 

「それってやっぱり理想じゃない?」と言われた時に、何も反論できない。

たとえ計画があっても、自分の言葉で伝えられない。

 

例えば、『学び合い』が生涯の子供の幸せにつながっていると言いたくても。

本に書いてあることは言えるけど、それ以上を言えないし、自分の言葉で伝えられない。

 

社会の話になれば、もっとです。

こういう社会がいいと思う。こうなっていくと思う。

 

「なぜ?どうやったらいいの?本当に正しいの?それでそんな社会にどんな価値があるの?」

 

そう言われれば、悩んでしまう。

 

 

気持ちを裏付ける根拠が、まだまだ足りないことを痛感しました。

 

本当に、まだまだ、学ぶべきことがある。学ばなきゃいけないことがある。

それを学べたのが、本当に良かったと思っています。

 

 

会が終わった後、私の分科会を聞いてくださった方から個人で連絡が来ました。

自分の考え方や生き方、会を受けてどう感じたのかを送ってきてくださいました。

ありがたかった。

 

その方は、料理やお菓子作りの工程のように、蜜(もっとわかりやすいのは何かお菓子とかを作る時の生地)と型と皿(プレート)のイメージを持って、自身の学びや成長、人との関係を捉えているようでした。(間違っていたら申し訳ない)

 

自分はどうだろうかって考えて、少し意味不明な文を残します。私はチョコだったりのお菓子作りのやり方で例えましょうか。

 

本来、プレート上に型を用意して、そこに生地を流し込む。

ここで言う生地が学びだったり、経験だったり。

そして型によって区切られている、と言う感覚。

そう言ったものがいくつも集まったプレートが、自分の思考だったり生き方だったりのまとまり。

 

でも、私の感覚だと。

まずそもそも、プレートに当たるものがなく、永遠にフラットな平面が続いていて。

そこにまず、小さな型が生まれる。

これは、目標だったり、やらなきゃいけないことだったり憧れだったり。

そんで、この型という物自体、その平面に置いているのは自分であったり、他者との関係によって置かれることもある。

 

その型に合わせて(目標に合わせて)生地を流し続けるイメージ。要は目標ができて、学びを埋めて近づくイメージ。

 

80%くらい完成に近づくと、今度その型より一回り大きいかたが被さる形で設置される。

そうすると、今までの型が外れて、また生地を流し込む面積が増える。

 

それをずっと続けていって。って感じで生きてる。

 

強烈な人との出会いや、出来事との出会い、大きな知識や経験は、見たこともないくらいの型を設置してきて。でもそこまで届かせたいから、必然的に投入する生地の質や量も変わっていく。

 

そうやって、何回も生地の面積が広くなっていって、型も大きくなっていって。

ふと振り返った時に、其の生地の大きさが自分の生きてきたものだなぁって実感する感覚。

要は、一生かけてどでかいクッキー作ってる感じ。焼き上がりは死ぬ時。

 

生地は均一じゃないけど、全部繋がっている。だから、その日学んだことも、どっかで必ず繋がっているって感じ。

 

それが、多分自分が生きてきたことの感覚だったり、学びの感覚なんだと思う。

 

例えは、メッセージを下さった方に合わせているけれど、当たっていると思う。

 

だから、型で区切るのではなく、型を大きくし続ける。

そんなイメージだったからこそ、最初にお話を聞いた時に?ってなってしまったのかも。

 

 

何を書いてあるかわからないかもですが、自分がわかるので良い。メモ代わり。

もし知りたい方は言ってくださいね。

 

要は、自分の学び続けるイメージは、色んな人・事と出会う事で常に目標や憧れ、こうなりたい、こうしたい!というのが更新され続けて。それを追って達成するために学び、経験していくということ。

 

そんで、目標が高次になればなるほど、学びの質や量も増えていくし、増やさなきゃいけないってこと。

 

そのことに気づいて。

だから、まず量。質は、人と話したり、よく考えなきゃ保障されない。

 

ただ、ふわふわ学んでいるだけでは遅いなって。

 

呼吸するように、学ぶ。それが量を確保することにつながる。

 

ちゃんと、生活する。

 

来年からは、一教員です。

まだ学生だからこそ、買ってもらえているところがあると思っています。

じゃあ、来年からはどうなる?自分の強みはなんだ。

 

これはまた次のブログで書きますが。

 

自分の価値はどこにあるか。そこをしっかり見定めて、極めていく必要があると学びました。