今日もいわし、はぐれてます。

海のように広い心で。

2024/11/2『学び合い』の会浜松

今日は、『学び合い』の会浜松に参加させていただきました。

たまたまオンライン開催と並行に行うという旨の文章がFacebookに流れてきて。

 

一大学生の身として、あまりお金がないのも事実。

いろんなところに行ってみたいけれど、、、

そういう時に、オンラインも募集されていることほど、嬉しいことはない。

 

新しい人、新しい会と出会うチャンス。飛び込みました。

 

越後の会に来てくださっていた方も多くおられ、いつもお世話になっている先生にもオンライン上で会うことができ、びっくりでした。

 

それぞれの地域で盛り上がること、繋がること。すごく大事だなと思います。アットホームな感じで。

 

それだけじゃなくて、いろんな会が交流できるようなフォーラムもやはりあるといいなと思います。よりつながりが広がるなと思います。

 

 

さて、今日の学び。たくさんあります。

 

会の雰囲気は、とってもアットホームな感じ。

オンラインは私一人でしたが、丁寧に対応していただきました。本当に感謝です。

会が始まる前から、もう話が進んでいたりして面白い。本や学習道具を各々持ち寄って話し合ったり。

 

自己紹介の際に、自分が今回の会で話したいことについて述べる時間があるのが素敵だなと思いました。

自分の課題感の共有、また他の人が何に悩んでいるのかにも興味があります。

 

面白いのは、学級会のような感じで、でも誰一人も見捨てず、全員達成を狙う。

全員の議題を、頑張って考えようというもの。

 

話し合うバランスも絶妙で、話しすぎず、意見を拾って全員で話を進めていく雰囲気がとても良かったです。

 

 

さて、ここからは学んだことと話題について。

 

○今後、教え方とが学級のスタイルってどうなっていくの?

これは、自分も興味がある話です。

『学び合い』がいいなと思っている身として、でもそれ一辺倒になるのは良くないとも思っていて。

出てくる話は、やはり工業化された現状と脱工業化社会になっていく過程での学びの姿。

 

私は、子供たちの手札が増える=教員自身の手札がある、だと思って聞いていました。

子供達が、いろんな手札を身につけて社会に出ていく。

 

そのためには、こちらも多様であるべきだなと。

それは、単に『学び合い』とか、一斉指導とかではなく。

 

結局、社会に対応して子供達に身につけてほしい力が変わってくるし、それは人それぞれ。

その時に、子供達にとって最善の方法がそこにあればいいなと思います。

それが『学び合い』だったり、一斉指導だったり。

教科学習だったり、総合みたいな学習だったり。

 

 

『学び合い』を主張しすぎると、一斉指導が悪い、みたいになってしまうけれど。

それは本当は悪ではない。

 

結局、いろんなことができて、いろんな失敗もできて。でもそれがまだ許されて、経験、学びにできるのが「学校」。

 

だから、その学校でできる「幅」というのを、教員が、学校が保証できるようになったら面白いなと思って聞いていました。

ま、だから教科学習が全員に必要ではないとも思うけれど。

それでも、教科だからこそ、できることもあるし、やりやすい、繋がりやすいというのもあると思っています。

 

 

○子供の悩み

分数ってやっぱり難しいよねっていう話。

 

塾で子供たちをみていても。

中学の数学で立ち止まる子供たちは、分数の概念がよくわからず、計算ができない。

九九が素早くできない、左から右へしか覚えていない。

(7×8=56 はできるが、56=7×8はなかなか思いつかない)

 

そんで、意外と大人もよくわかってないよね!っていう話。

料理とか、そうだなって。

 

時間の学習とかも、要はどれだけ日常と結びつけられるか。

子供達が必要性を考えられるか。

 

 

こういう難しい内容について、たくさんの授業方法が提案されています。

絵に書いたり、模型を使ったり。

 

それが正解で、よくわかる子『も』いる。

そこが大事。

 

わかる子「も」いるけれど。わからない子「も」いる。

 

そうやって、結局万人がわかるたった一つの方法なんてものはない。

だから、質ではなく、量で。その中からわかる説明を得る。

 

それが『学び合い』。

これだけでわかる!というのがないからこそ、わかるまで、多様なやり方で、何度も、何人もやる。そうやって、本気で「全員がわかる」という状態にしようとしたのが『学び合い』なんだなと。

 

○遊びたりてる?

授業に入る、というときに。というかその単元に入る、という前に。

その子にどれだけそれに関しての経験、発想があるかというのは学習の成立、スピードに大きく関わってくる。

レディネスとかそういう類。

 

それで、それが作られるのって、子供の時の、何気ない日常の行動、突拍子もない動きからだよなってお話。

 

分数も、数として紙の上で理解する前に。おおまかにコップにある水の量から考えたり。

それって、友達の家に上がった時に、あれ、なんかあの人のジュースの量と俺のジュースの量違くね?みたいな話から、考えていくもの。

 

そういう、学習の前の遊び、が少なくなってきているのではないかということ。

 

 

だから、学習の流れの理想は

「遊び」▶︎「共通言語」の生成▶︎「学び」

 

遊んでいる中で、自分の中で生まれてくる感覚があって。

人と関わって、人と遊ぶことでそれが言語化され、調整され、共通のものとなる。

 

そういう共通言語が多くなる分だけ、子供たちの間での話し合いは盛り上がるし、伝わりやすくなる。

 

ある特定の擬音があったとして。

それが子供達の遊び場で通じ合っている言語であれば、それが学びの場でより容易に伝わるツールになる。

 

そこに人と学ぶ利点がある。

 

 

じゃあ、そういう小さい時の経験で、保護者の役割って?

やらせてみる、止めない、介入しすぎない。

子供達のためにどこまで経験させられるか。

 

教員の行為の意図は、気づいたら自己の保身になっていないか?

 

そこをよく見極める必要があるなと思いました。

 

そういう点で、学校は、個性を尊重しつつ、他者との関係を学ぶ場所。

人といるからわかってくることがある。

そこに、大人は介入しすぎるべきではない。と思ったり。

 

 

○共通言語について。

越後の会での謎も、今回明かされました。

詳しくは、その方のFacebookの投稿でわかることになると思いますので、詳しくは書きません。

 

結局、なぜ、質問に質問で返したのか。どうしてそういう手法をとったのか。

聞けば納得でした。とても。面白い。

 

それが、あー、共通言語というか、腑に落ちる、落とすためには最善だよなあって。

 

○頭を下げて、謝れない?

最近の子供達は、頭を下げて謝れない?

 

事実はよくわかりません。

でも、言葉で全て済まそうとする傾向はある気がしています。

 

「ごめーん」

「ありがとう」

 

大切な挨拶のはずですが、SNSなども含めて、言葉での往復で済んでるケースが多い。

 

よく授業で見られる「どうですかー?」「「「いいでーす」」」

 

これは何?何の確認なの?

 

そういう、ほんとうにそれでいいの?しっかり深くまで考えてる?動作として出してる?

ってことに、もっと疑問を持った方がいいかもしれない。

 

これは子供だけでなく、大人も。

 

 

○自分の学びを振り返ると。

・自分の行動、親としても、教師としても、大事。

子供達は、よく見ている。場面場面で、大人がどう判断して、どう行動しているのか。

気が抜けない、というよりも。見せられる姿でいようとする努力が大事だなと思います。

挨拶しろ!というけれど、自分は挨拶している?近所の方とすれ違った時はどうしてる?

意外と、見られているのかもなぁと思います。

 

・失敗できる空間を構築する。

教師は、失敗しない。なんて思われていることもある気がします。

小学校のときに、先生はミスしてないのかな、って思ったこともあります。

 

そういう姿を積極的に見せる、話しながら。

ミスすることが全て悪いわけではないこと。

ミスした後の行動の方がむしろ大事な場面が多いこと。

 

それを、自分が実践して語れなければいけません。

 

そうやって、子供達がどんどん挑戦して、失敗して。

それを許容して、励まし合える空間って素敵だなと思います。

そういう空間を構築したい。

 

・社会をよく知る。もっと「人」について知る。

結局、教育と社会は一対一。

育てて、最後は送り出す。

そのときに、子供達にどうなっていて欲しいか。

 

それを考えるには、送り出す先を見なければいけない。

 

 

今回の会で、いろいろな方の実践を聞けたのも良かったし、実践だけでなく、根本の教育についての考え方を見直すこともできたと思います。とても充実していました。

本当にありがとうございました。