今日もいわし、はぐれてます。

海のように広い心で。

耳できくということ

昨日は、先輩が非常勤講師で働いている高校へ、授業見学に行かせていただきました。

 

これまで実際に実習で『学び合い』をしたり、授業見学に行かせていただく中で、小学校、中学校の『学びあい』はみましたが、高校での『学び合い』を見るのは初めて。

 

面白かったです。

それに、内容は高校数学。

一斉授業でも、『学び合い』でも。自分でも授業してみたいな!と思ったり。

 

今回の授業参観では、自分は特に「耳できく」ということを意識してやってみました。

それは越後の会の分科会で学んだこと。

 

『』の実践において、先生方はどこをみていますか、という質問に対しての回答。

 

目で見るというよりも、音を聞く。

 

 

自分の『』実践は、結構目で見るが多かったように思います。

 

全体を俯瞰して、集団のまとまりや流れを見る。

生徒間で行われる視線の行き来だったり、ちょっとした動作などをみて、その場に合わせて声がけしていたように思います。

 

自分はよく、子供達の動きだったりを、動線って呼んだり、風通しって言ったりしているのですが。

 

集団が固まって動かないところ、うまく進んでないところはその風が澱んでいるような気がするんです。

 

逆に、風の運び屋もいて。

それは教えるために、グループ間を行ったり来たりする子や、他のグループに偵察に行くような子どもたち。

 

その子達が活発になればなるほど、全体的に空気の澱み、溜まりが解消されていって、飽和するイメージ。

 

その風の運び屋を活発化させるのが教師の声がけかなって思っています。

 

 

逆に、なんかここが障壁になってるな、っていうような、風のうまいこと通らない場所は、自分が逆に通ることで変化したり。(通る時に別に言葉を発したりはしませんが)

 

 

それで、今回の授業では、耳できくを意識したんです。

 

耳から聞こえてくる言葉は、本当にたくさんありました。

今回の授業内容の範囲に関わることから、はるか前の内容についてだったり、ノートの取り方についてだったり。雑談だったりゲームの話も。

 

雑談やゲームの話は、1分聴いているとまた勉強の話に戻っているのが面白い。

 

そして何より。

ただ聴いているだけだと、それこそ右から左へ、なんか話しているなーとか、活動が活発やなーという平坦な感想になってしまうけれど。

 

自分の中で、この授業で学習させたい言葉、キーワードを意識すると、めちゃくちゃ面白い。

その言葉がちゃんと耳から入っていると、ある程度どの集団が、どのレベルで学習が成立しているのかよくわかる。

 

例えば、今回の授業で必要だったのは「平方完成」「グラフの最大最小」「定義域」

その辺が出てくる集団は、学習成立しているなって。

 

あとは、その音の聞き取り。

普通に聴いていれば、全ての音が同時に入ってくるけれど。

こう、チャンネルを合わせるようにして、ある班、ある位置にチャンネルを合わせて耳を澄ませると、そこでの会話が中心に聞き取れる。

 

それをいろんなチャンネルを合わせて、各班での活動をざっと把握できる。

 

そうやってから、目で見たり、同時にやったり。

 

そうすると、本当により全体を俯瞰して「みる」ことができる。

そうすると、集団全体での動きがどうかという評価もしやすい。

 

自分が感じる、風通し、のようなものも、結局は目で見て、耳で聞いて、肌で感じ取って、、、全身を使って集団をみるということなのかなとなんとなく把握。

 

 

生き方のレベル、『』の考え方というのはゼミや人と話すことでアップデートされていく。

でも、実際に自分がこれから教員になって授業していく時に。

方法論での『』もよく知っておきたいと思う。

 

そのためには、いろんな実践を見て、自分もやってみて。

あとは、実践中にも自分ができることがあるというのがわかりました。

『』の実践中は、自分は評価者として、集団を見取れる。

 

いろんな授業を見てみたいなと思いました。