今日もいわし、はぐれてます。

海のように広い心で。

部屋と教室と自分と他人。

「3m×3m×3mの大きさは5畳程度の一人暮らし・部屋と同等ということかは着想を経て、2024年の大学生の私たちの抱えている現状を投影させた部屋を空間を作り出した。
鑑賞者がその空間に入り、決まった時間をその空間で過ごすことで、就職への不安やセルフネグレクトなどの要素を見つけ今後どう私たちが生きていくのか問題提起をしたものである。
部屋はある一定の時間が来るまで開けることは不可能であり時間が経つと必ず出ることを求める。そのため「大学生」という自分の肩書きを持ち続けたい気持ちと脱出したい気持ちという人それぞれの感じ方を部屋の開閉を通して生み出している。」

 

一辺3mの立方体をもって、「大学生」という期間や人、その現状を投影した部屋を作るという美大生たちの作品の一つです。

コメントは、その制作者の方の一人とお話ししたときに、その方が作品に対して持っているテーマとして語ってくださったものです。

 

実物は見ていないのですが、お話ししている中で、コンセプトがすごく面白いなと感じました。

自分も大学生。また、ちょうどあと一年という残りの時間を大切に思うタイミング。

この、「大学生」という部屋は。自分にとってどのような意味を持つんだろう。

すぐそこには、夢であった教員という職業が待っていて。

必然的に、卒業すれば、その職につき、子供達、先生方と関わっていくことになる。

 

もちろん、すごく楽しみな気持ちもあるけれど、まだ、学びたいという気持ちや、現場に対する不安から、まだ大学生でいたい、という様々な感情が混ざっている。

 

そういった、自己の感情や、喜怒哀楽、在学中の時間の経過の速さや、卒業という終わり。

それは、自分の意思を伴って、出たいと感じて出ていくのか。追い出されるのか。

そんなことを考える作品だなぁと、お話を聞いていて、自分の感想として持ちました。

 

制作が終わって、その方とお話しする中で。

まず、その作品の面白いところ、というのが、鑑賞者体験型である、というところでした。

ある作品は、問題提起だったり、作者のメッセージが込められていて、鑑賞者の心に届けるというものが多い、というか、自分はそのパターンが多かったように思います。

 

今回は、鑑賞者がその部屋に入り、自分で考え、様々なものを手に取り、その上で、部屋から出る、という一連の鑑賞者主体になる作品。

だからこそ、「作品から学ぶ」だけでなく、「鑑賞者から学ぶ」ということが多いということで。

 

 

あれ、これって、教育で言うところの「先生が教え、生徒が学ぶ」だけでなく、

「先生が、生徒から学ぶ」と言うところに似ている、と思いました。

 

だからこそ、生徒主体の活動や、『学び合い』なんかは、見ていてとても面白いし、何より自分の学びになることが多い。

 

その方の言葉を引用すれば、「空間の与える力と空間の意義」。

自己とその空間の結びつきという視点が、今回の作品で面白かったところ。

 

では、教室では?

 

子供達には、一人一つ机や椅子、ロッカーが存在していて。

それらには、番号や名前が書いてある。

それは、その人固有の居場所、空間であって。

だから、持ち物や配布物に名前を書くのも、自己の空間の拡張、学校での自分の空間の確保と考えることもできる。マーキング的な。

 

でも、どこまでもその境界が曖昧でもある。

机と机の間に、敷居もない。下手すれば、プリントや持ち物は混在し、貸し借りも存在する。

それは、他人と自分との部屋の境界がないのと同じ。

 

だから、自分の領域を広げると言う目的としても、人と関わったり、机をくっつけたり、小集団になったり。

そうすることで、自分の空間を広げ、自分が許容できる、心が穏やかになれる空間が作られる。

 

授業中に、アイコンタクトをするのは。

そう考えると、全員が繋がった部屋にいる中で、意図的に同線を引いて自分と相手との共有空間を作ろうとしている、とか?

 

 

きっと、個人でいることも、人といることも。見えない空間の作成なのかなと感じます。

それはその人それぞれの感覚があって。

 

でもそうすると。

教員は、意図せずにその空間をかき乱していることにもなる?

班活動やペア活動は。

本来その人個人が持っている空間、また別の人と繋がっていた空間を遮断し、混在させようとするもの。それってまるで、自分の住んでいる部屋と他人の部屋を、管理人が意図的に壁を壊してくっつけようとするものと同じでは?

 

それは、あんまりうまくいかないんじゃないかなぁって思います。

 

だから、『学び合い』は、本能的に、自分の空間を決めることができるから、集中できる。

 

ごちゃごちゃまとまりのない文になりましたが。

部屋という物理的な空間は、実はその人が持ちえる目に見えない空間、いろんな意味を持つ空間を表していて。

 

それは、学校でもそうなのではないか、なんてことを考えたわけです。

 

どこまでも、作品も、教育も。人に関わっていて、人がテーマだからこそ。

根本は同じになっているのかもしれない?なんて思ったり。